八阪神社と不思議な狛犬〜佐賀県西松浦郡有田町

2022/06/12

源為朝 狛犬 佐賀 三韓征伐 神社仏閣 土蜘蛛 日本の歴史 八阪神社 武内宿禰

 




八阪神社(やさかじんじゃ)




【所在地】


佐賀県西松浦郡有田町




【御祭神】


武速素戔嗚尊(たけはやすさのおのみこと)



前後に2つ並ぶ鳥居


拝殿


境内


とても古そうな複数の石祠




【由緒と歴史】


第12代・景行天皇が、『土蜘蛛(つちぐも)』征伐の戦勝を祈願した。

神功皇后が、『三韓征伐』の海上安穏・三韓降伏・国土安泰を祈願した。

『鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)』が、白川谷に現れた大蛇退治の成功を祈願した。

創建は、仲哀天皇以前からある。

京都の八坂神社から素戔嗚尊の分霊を迎え、社殿を建てた。




【土蜘蛛】


土蜘蛛(土雲)とは、古代のヤマト王権において、大王(天皇)に従わなかった土豪たち。

豪族に対して、土豪は特定の土地の小豪族を指す。

土蜘蛛は、一つの小豪族の勢力のことではなく、九州・近畿・関東甲信越と各地に存在している。

熊襲(くまそ)や蝦夷(えみし)の集団とは異なり、土蜘蛛は個人名として登場する。

「古事記」では神武紀に、「日本書紀」では神武天皇・景行天皇・神功皇后の3紀に、「都知久母(つちぐも)」や「土蜘蛛」の名がある。

土蜘蛛の首長と思われる名前が33名あり、「女(め)」や「媛(ひめ)」が使われた、女性と思われる首長が8名いる。

朝廷に従わない存在は、鬼や土蜘蛛と呼ばれていた。

土蜘蛛は、横穴のような住居で暮らし、穴に籠る様子から、土隠(つちごもり)→土蜘蛛(つちぐも)と言われるようになった。

凶暴で、山野に岩石や土砂を掘削して、要塞を築いて住んだいた。

体が小さく、手足は長い、小人のようだった。


あくまでも私見だが、土蜘蛛はシャーマンや巫女だったのではないかと思う。




【三韓征伐】


200年、神功皇后が新羅・高句麗・百済の三韓を征伐。

南九州に住む熊襲(くまそ)という豪族が背いたため、仲哀天皇(神功皇后の夫)は、熊襲征伐のために筑紫に陣した。

神功皇后に神懸かりがあり、仲哀天皇が琴を弾いて神を祀った。

大臣・武内宿禰(たけのうちのすくね)が、神功皇后に憑いた神のお告げを伺った。

神は天照大神らで、次のような神託を述べた。

「熊襲は空しい土地なので、海の西の金銀あふれる新羅の国を打ちなさい」

仲哀天皇は神託を疑った。

「あなたのような者に、天下を治めさせるわけにはいかない」と神は告げて去った。

この後、仲哀天皇は崩御。

神功皇后は、住吉三神からも次のような神託を得た。

「潮の満ち引きを自在に操ることができる『干珠・満珠』を龍神から借り入れるように」

神功皇后は胎内に応神天皇を宿したまま、武内宿禰らとともに、軍船を率いて新羅に向かった。

海神や魚たちが新羅を津波で襲った。

武内宿禰が『干珠・満珠』を借り受け、勝利を収めたとされる。

新羅国王は恐れおののき降伏し、高句麗、百済もそれに従った。




【武内宿禰】


第12代・景行天皇〜代16代・仁徳天皇の5代の天皇に仕えた。

133年、第13代・成務天皇は、同日生まれで幼少期から慣れ親しんでいた、武内宿禰を大臣(おおみな)に任命。

武内宿禰は初の大臣であり、日本で初めて行政区分制度を定めた人。

千、百を単位にして、国・県(あがた)・郡(こおり)・邑(むら)に分け、国造(くにのみやつこ)・県主(あがたのぬし)・稲置(いなぎ)を置いたとされる。

神功皇后の活躍は武内宿禰なしには語れない。

神功皇后が行う神事のサポート、ため池の築造など、国家の為に尽くし、多くの功績を残した。

必ずと言っていいほど、神功皇后と武内宿禰はセットで神社に祀られ、セットで歴史に登場する。


おそらく、武内宿禰は修験者かシャーマン、神功皇后は大巫女。

なので2人は、御伽噺のような快挙を成し遂げたのだろう。



武内宿禰に関連する記事⇩

『武内宿禰と高良大社〜福岡県久留米市』

https://keipandkeip.blogspot.com/2021/08/blog-post_22.html


『武雄神社〜佐賀県武雄市』

https://keipandkeip.blogspot.com/2022/06/blog-post_17.html




【鎮西八郎為朝】


鎮西八郎為朝は、源為朝(みなもとのためとも)のこと。

祖父は源義経で、父・源為義の八男。

2m10㎝の大男で、弓の使い手。

幼少期の頃から暴れ者で、家中の嫌われ者だった。

見かねた父は、立派な武士に成長して欲しいと願い、13歳の為朝を九州の豪族・阿蘇氏に預けた。

しかし、為朝の素行はますます激しくなり、阿蘇家を飛び出した。

勝手に鎮西八郎為朝と名乗り、各地の豪族を相手に騒乱を繰り返した。

20歳で豊後(大分県)に腰を据える。

豊後では村人に慕われていたようだ。

1156年、保元の乱で、父・為義とともに崇徳天皇に加わったが破れた。

為義は首を刎ねられ、為朝は伊豆大島に流された。

39歳でこの世を去る。




【為朝と大蛇のエピソード】


肥前国(佐賀県)有田郷白川の大きな池に、大蛇が棲みつき、毒気を振り撒くようになった。

大蛇は頭に7本の角を持ち、雷雲を従え、時には目を光らせ雷を落とし、口から火を吐いた。

そして、黒髭山(有田町と武雄市にまたがる山)を行き来するようになった。

困った里人たちは、為朝に助けを求めた。

大蛇退治の作戦を開いていると、いつの間にか謎の翁が現れた。

「美しい乙女を囮にして、大蛇を誘き出し、射止めるとよい」と告げ、翁は姿を消した。

万寿姫(まんじゅひめ)という娘が囮になり、白川の池のほとりに座っていると、大蛇が現れた。

為朝が放った大鏑矢が、大蛇の右目を射抜いた。

大蛇はのたうち回りながら逃げたが、力尽きて竜門峡の谷底へと落ちて行った。


7本の角を持ち、火を吐くのは大蛇ではなく、まるでドラゴンのようだ。

黒髭山・武雄市から武雄神社を連想したのだが、現れた謎の翁は、武雄神社の御祭神・武内宿禰ではないかと思ってしまう。




【八阪神社の行事】


有田町では毎年6月1日を「山登り」と言う。

昔からある伝統行事の一つで、山を登ることではない。

有田焼は約400年前に、朝鮮から来た「李参平」が、有田焼の原料である陶石を有田町泉山で発見したことが始まり。

陶工たちは、鍋島藩の元で陶磁を作っていた。

朝鮮から渡来した陶工たちは、町内の小高い山に登り、宴会をして、故郷に思いを馳せた。

このことが「山登り」の由来なのだろう。

時代が経つにつれて、有田焼の職人さんたちは、山登りの日には仕事を休み、お酒を飲んだり、湯治をしたりして過ごしたそうだ。

今では、八阪神社で茅の輪をくぐり、厄を祓う行事が行われている。




【地元の方の話】


八阪神社の写真を撮っていると、地元の方がやって来て、面白いことを教えてくれた。


地元の方:『ここで写真を撮るならこれを撮るといいよ。東京からこれを撮りにくる人もいるよ』

私:「学者の方ですか?」

地元の方:『そんなんじゃないよ。元々は狛犬だったのが、とても古くて、狛犬かどうかも分からなくなってるでしょう』

私:「狛犬かな?と首を傾げました。教えて貰わないと狛犬かどうかもよく分からないです。」

地元の方:『鳥居には八阪神社と書いてあるけど、由緒書には八坂神社と書いてあるでしょう。八阪が正しいのに、京都の八坂神社の八坂と書き間違えているんだよ。いつの時代にも間違える人はいるものだね』


狛犬は、まるで溶けてしまったかのように、原形を留めていない。

地元の方は気さくで優しく、お話しはとても楽しかった。



原形を留めていない狛犬が2体


原形を留めていない狛犬




【謎の小さな社】


天満宮と書かれた鳥居の先の階段を上ると、謎の小さな社がある。

中には臼のような形の木を祀ってある。

木には扉があり、開くようになっているようだ。

木の中には何か入っているのだろうか?

いったい何を祀っているのだろうか?

天満宮の鳥居の先にあるので、天神様が祀られているのだろうか?

左側の石祠は、梅のマークが刻まれているので、天神様を祀ってあるようだ。



天満宮


左側:梅のマークが刻まれた石祠


謎の社


社の中




【謎の月天社】


境内後方に「月天社」と書かれた石碑がひっそりと建っている。

「月天社」と書いてあるが、拝殿や社はない。

石祠なのだろうか?

後ろの山が御身体なのだろうか?

「月」というのが気になる。



月天社




【おわりに】


ゴールデンウィークに開催された有田陶器市を訪れた時に見つけた神社。

何か呼ばれているような感じがして、「ご挨拶しなくちゃ」と思い、何気なく寄ってみた。

境内にある案内看板の由緒を見ると、古代史において重要な拠点であることが書かれている。

歴史的に重要な場所だと思うのだが、八阪神社の歴史を調べようと、検索しても、情報が殆ど出てこない。

穴場の神社のようだ。