八阪神社(やさかじんじゃ)
【所在地】
佐賀県西松浦郡有田町
【御祭神】
武速素戔嗚尊(たけはやすさのおのみこと)
前後に2つ並ぶ鳥居 |
拝殿 |
とても古そうな複数の石祠 |
【由緒と歴史】
第12代・景行天皇が、『土蜘蛛(つちぐも)』征伐の戦勝を祈願した。
神功皇后が、『三韓征伐』の海上安穏・三韓降伏・国土安泰を祈願した。
『鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)』が、白川谷に現れた大蛇退治の成功を祈願した。
創建は、仲哀天皇以前からある。
京都の八坂神社から素戔嗚尊の分霊を迎え、社殿を建てた。
【土蜘蛛】
土蜘蛛(土雲)とは、古代のヤマト王権において、大王(天皇)に従わなかった土豪たち。
豪族に対して、土豪は特定の土地の小豪族を指す。
土蜘蛛は、一つの小豪族の勢力のことではなく、九州・近畿・関東甲信越と各地に存在している。
熊襲(くまそ)や蝦夷(えみし)の集団とは異なり、土蜘蛛は個人名として登場する。
「古事記」では神武紀に、「日本書紀」では神武天皇・景行天皇・神功皇后の3紀に、「都知久母(つちぐも)」や「土蜘蛛」の名がある。
土蜘蛛の首長と思われる名前が33名あり、「女(め)」や「媛(ひめ)」が使われた、女性と思われる首長が8名いる。
朝廷に従わない存在は、鬼や土蜘蛛と呼ばれていた。
土蜘蛛は、横穴のような住居で暮らし、穴に籠る様子から、土隠(つちごもり)→土蜘蛛(つちぐも)と言われるようになった。
凶暴で、山野に岩石や土砂を掘削して、要塞を築いて住んだいた。
体が小さく、手足は長い、小人のようだった。
あくまでも私見だが、土蜘蛛はシャーマンや巫女だったのではないかと思う。
【三韓征伐】
200年、神功皇后が新羅・高句麗・百済の三韓を征伐。
南九州に住む熊襲(くまそ)という豪族が背いたため、仲哀天皇(神功皇后の夫)は、熊襲征伐のために筑紫に陣した。
神功皇后に神懸かりがあり、仲哀天皇が琴を弾いて神を祀った。
大臣・武内宿禰(たけのうちのすくね)が、神功皇后に憑いた神のお告げを伺った。
神は天照大神らで、次のような神託を述べた。
「熊襲は空しい土地なので、海の西の金銀あふれる新羅の国を打ちなさい」
仲哀天皇は神託を疑った。
「あなたのような者に、天下を治めさせるわけにはいかない」と神は告げて去った。
この後、仲哀天皇は崩御。
神功皇后は、住吉三神からも次のような神託を得た。
「潮の満ち引きを自在に操ることができる『干珠・満珠』を龍神から借り入れるように」
神功皇后は胎内に応神天皇を宿したまま、武内宿禰らとともに、軍船を率いて新羅に向かった。
海神や魚たちが新羅を津波で襲った。
武内宿禰が『干珠・満珠』を借り受け、勝利を収めたとされる。
新羅国王は恐れおののき降伏し、高句麗、百済もそれに従った。
【武内宿禰】
第12代・景行天皇〜代16代・仁徳天皇の5代の天皇に仕えた。
133年、第13代・成務天皇は、同日生まれで幼少期から慣れ親しんでいた、武内宿禰を大臣(おおみな)に任命。
武内宿禰は初の大臣であり、日本で初めて行政区分制度を定めた人。
千、百を単位にして、国・県(あがた)・郡(こおり)・邑(むら)に分け、国造(くにのみやつこ)・県主(あがたのぬし)・稲置(いなぎ)を置いたとされる。
神功皇后の活躍は武内宿禰なしには語れない。
神功皇后が行う神事のサポート、ため池の築造など、国家の為に尽くし、多くの功績を残した。
必ずと言っていいほど、神功皇后と武内宿禰はセットで神社に祀られ、セットで歴史に登場する。
おそらく、武内宿禰は修験者かシャーマン、神功皇后は大巫女。
なので2人は、御伽噺のような快挙を成し遂げたのだろう。
武内宿禰と関連するブログ記事⇩
『武内宿禰と高良大社〜福岡県久留米市』
https://keipandkeip.blogspot.com/2021/08/blog-post_22.html
『武雄神社〜佐賀県武雄市』
https://keipandkeip.blogspot.com/2022/06/blog-post_17.html
【鎮西八郎為朝】
鎮西八郎為朝は、源為朝(みなもとのためとも)のこと。
祖父は源義経で、父・源為義の八男。
2m10㎝の大男で、弓の使い手。
幼少期の頃から暴れ者で、家中の嫌われ者だった。
見かねた父は、立派な武士に成長して欲しいと願い、13歳の為朝を九州の豪族・阿蘇氏に預けた。
しかし、為朝の素行はますます激しくなり、阿蘇家を飛び出した。
勝手に鎮西八郎為朝と名乗り、各地の豪族を相手に騒乱を繰り返した。
20歳で豊後(大分県)に腰を据える。
豊後では村人に慕われていたようだ。
1156年、保元の乱で、父・為義とともに崇徳天皇に加わったが破れた。
為義は首を刎ねられ、為朝は伊豆大島に流された。
39歳でこの世を去る。
【為朝と大蛇のエピソード】
肥前国(佐賀県)有田郷白川の大きな池に、大蛇が棲みつき、毒気を振り撒くようになった。
大蛇は頭に7本の角を持ち、雷雲を従え、時には目を光らせ雷を落とし、口から火を吐いた。
そして、黒髭山(有田町と武雄市にまたがる山)を行き来するようになった。
困った里人たちは、為朝に助けを求めた。
大蛇退治の作戦を開いていると、いつの間にか謎の翁が現れた。
「美しい乙女を囮にして、大蛇を誘き出し、射止めるとよい」と告げ、翁は姿を消した。
万寿姫(まんじゅひめ)という娘が囮になり、白川の池のほとりに座っていると、大蛇が現れた。
為朝が放った大鏑矢が、大蛇の右目を射抜いた。
大蛇はのたうち回りながら逃げたが、力尽きて竜門峡の谷底へと落ちて行った。
7本の角を持ち、火を吐くのは大蛇ではなく、まるでドラゴンのようだ。
黒髭山・武雄市から武雄神社を連想したのだが、現れた謎の翁は、武雄神社の御祭神・武内宿禰ではないかと思ってしまう。
【八阪神社の行事】
有田町では毎年6月1日を「山登り」と言う。
昔からある伝統行事の一つで、山を登ることではない。
有田焼は約400年前に、朝鮮から来た「李参平」が、有田焼の原料である陶石を有田町泉山で発見したことが始まり。
陶工たちは、鍋島藩の元で陶磁を作っていた。
朝鮮から渡来した陶工たちは、町内の小高い山に登り、宴会をして、故郷に思いを馳せた。
このことが「山登り」の由来なのだろう。
時代が経つにつれて、有田焼の職人さんたちは、山登りの日には仕事を休み、お酒を飲んだり、湯治をしたりして過ごしたそうだ。
今では、八阪神社で茅の輪をくぐり、厄を祓う行事が行われている。
【地元の方の話】
八阪神社の写真を撮っていると、地元の方がやって来て、面白いことを教えてくれた。
地元の方:『ここで写真を撮るならこれを撮るといいよ。東京からこれを撮りにくる人もいるよ』
私:「学者の方ですか?」
地元の方:『そんなんじゃないよ。元々は狛犬だったのが、とても古くて、狛犬かどうかも分からなくなってるでしょう』
私:「狛犬かな?と首を傾げました。教えて貰わないと狛犬かどうかもよく分からないです。」
地元の方:『鳥居には八阪神社と書いてあるけど、由緒書には八坂神社と書いてあるでしょう。八阪が正しいのに、京都の八坂神社の八坂と書き間違えているんだよ。いつの時代にも間違える人はいるものだね』
狛犬は、まるで溶けてしまったかのように、原形を留めていない。
地元の方は気さくで優しく、お話しはとても楽しかった。
原形を留めていない狛犬2体 |
【謎の小さな社】
天満宮と書かれた鳥居の先の階段を上ると、謎の小さな社がある。
中には臼のような形の木を祀ってある。
木には扉があり、開くようになっているようだ。
木の中には何か入っているのだろうか?
いったい何を祀っているのだろうか?
天満宮の鳥居の先にあるので、天神様が祀られているのだろうか?
左側の石祠は、梅のマークが刻まれているので、天神様を祀ってあるようだ。
天満宮 |
左側:梅のマークが刻まれた石祠 |
謎の社 |
社の中 |
【謎の月天社】
境内後方に「月天社」と書かれた石碑がひっそりと建っている。
「月天社」と書いてあるが、拝殿や社はない。
石祠なのだろうか?
後ろの山が御身体なのだろうか?
「月」というのが気になる。
月天社 |
【おわりに】
ゴールデンウィークに開催された有田陶器市を訪れた時に見つけた神社。
何か呼ばれているような感じがして、「ご挨拶しなくちゃ」と思い、何気なく寄ってみた。
境内にある案内看板の由緒を見ると、古代史において重要な拠点であることが書かれている。
歴史的に重要な場所だと思うのだが、八阪神社の歴史を調べようと、検索しても、情報が殆ど出てこない。
穴場の神社のようだ。
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