氷室(ひむろ)神社




【所在地】


兵庫県神戸市兵庫区氷室町




【御祭神】


大國主大神(おおくにぬしのおおかみ)


仁徳天皇(にんとくてんのう)

*第16代天皇。


市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)























【由緒と歴史】


創建は古く不明。

1800年の歴史を持つ古社。

神社の鎮座する*夢野の地は、古くは禁野だった。

高貴な人の墓所、皇室の*御料地で殺生禁断の地だった。

200年、*仲哀(ちゅうあい)天皇の皇子、兄・*麛坂皇子(かごさかのみこ)と弟・忍熊皇子(おしくまのみこ)は、自分が皇位を継ぐことを考え、この地で*祈狩(うけいがり)を行った。

麛坂皇子は、猪に襲われて亡くなり、この地に墳墓が築かれた。

374年、*額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)が、この地に狩りに来た時、氷室があるのを見付け、この氷室に納めた氷を毎年、天皇に献上するようになった。

平安時代、平清盛が広島の厳島神社より市杵島比売命を奉斎。

氷室神社の付近には、平清盛の弟・*教盛(のりもり)の邸宅があった。

1180年、平清盛が京都から*摂津国福原に都を移した〔福原遷都〕時、教盛の邸宅に後白河法皇が幽閉されていた。

源平合戦の時、教盛の子、兄・通盛(みちもり)と弟・教経(のりつね)は、氷室神社付近に陣を張った。

氷室神社の西には、源義経が駆け下った*鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)の地がある。

1336年、楠木正成が家来を連れて社家を訪れ、*会下山(えげやま)に陣を張った。

明治8年、京都の伏見稲荷大社より稲荷神社を勧請。


*夢野の地:兵庫県神戸市兵庫区湊川の西。菟餓野(とがの)から夢野と改名された。


*御料地:皇室の所有地。


*仲哀天皇:第14代天皇。


*麛坂・忍熊皇子:仲哀天皇と大中姫(おおなかつひめ)の子。第15代・応神(おうじん)天皇の異母兄。


*祈狩:狩りを行って占うこと。


*額田大中彦皇子:応神天皇と高城入姫(たかきいりひめ)の子。仁徳天皇の異母兄。


*教盛:平清盛の異母弟。


*摂津国福原:兵庫県神戸市兵庫区。福原遷都は一時的遷都。


*鵯越の逆落とし:断崖を一気に駆け下って平氏の背後をつき、源氏軍を勝利に導いた。


*会下山:兵庫県神戸市兵庫区会下山町にある山。



氷室稲荷神社

















































 







【麛坂・忍熊皇子の祈狩】


200年、麛坂皇子と忍熊皇子の兄弟は、父の仲哀天皇が亡くなり、神功皇后の皇子〔応神天皇〕が誕生したことを聞いた。

「父が死んだら、私が皇位を継ぐことになっていたのに、神功皇后に皇子が生まれたならば、この子を天皇にするだろう。私たちは兄なのに、どうして弟に従うことができるだろうか」

そこで、麛坂皇子と忍熊皇子は、神功皇后の皇子が皇位に就くことを恐れ、謀反を企て、明石海峡付近で待ち構えることにした。

そして、2人は夢野の地で祈狩をすることによって、この戦いの吉凶を狩りによって占うことにした。

「私がこの地で狩りを行い、たくさん獲物を捕ったなら、天皇になれるだろう」

しかし、この日は一日中獲物を捕らえることができなかった。

夕方になり、どこからともなく、大きな赤猪が現れ、麛坂皇子を目掛けて飛び掛かってきた。

麛坂皇子は急いで大きな木によじ登ったが、猪は木の根をえぐり倒して、麛坂皇子を喰い殺してしまった。

「大いなる怪異である。ここで敵を待つことはよくない」

間違いなく占いの結果は凶だったのに、弟の忍熊皇子は占いを無視して、神功皇后の軍を迎え撃った。


この時の神功皇后の様子はこちら⇩

『長田神社〜兵庫県神戸市長田区』

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【夢野の氷室】


日本書紀・巻第十一・仁徳天皇62年夏5月に次のようなことが記されている。


額田大中彦皇子は夢野で狩りをしていた。

小高い山に登った皇子が、広々とした夢野の原を眺めていると、野原の中に小さな庵のような、妙な仕掛けを見つけた。

調べてみると、何かいわくありげな洞窟だった。

そこで、*闘鶏稲置大山主(つげのいなぎおおやまぬし)という土地の主に尋ねてみると、それは氷室というものだった。

闘鶏稲置大山主:「あれは氷室でございます。あの岩屋の中は、いつも冷たく、冷え冷えしております。そこでこの土地の者は、冬の間に大きな氷を切り出し、あの岩屋の底の地面を一丈(約3m)ばかり掘って、底にカヤやススキを厚く敷き、そこに氷を詰めるのです。その上をカヤで覆い、土をかけて蓋をします。そして、氷を保存し、暑い季節になると、氷を掘り出し、砕いて水や酒に入れて飲むのです。」

額田大中彦皇子:「それは珍しい。良いことを聞いた。さっそく天皇に献上しよう」

それ以降、必ず氷を蓄え、春分の時期を待って、氷を宮中で配る習慣になった。


日本初の天然の冷蔵庫の記録である。


*闘鶏稲置大山主:氷室神社由緒に「闘鶏稲置大山主は、今の村長にあたり、氷室神社社家の先祖になります」と書いてある。



氷室跡








氷室跡へと続く道


【神戸と奈良の氷室神社】


氷室神社というと、奈良の氷室神社を思い浮かべるだろう。

日本書紀には、額田大中彦皇子がどこで氷室を見付けたのか、場所は書いていない。

日本書紀が編纂されたのは720年。

和銅5年〔712年〕の日付と「都祁(つげ)氷室」と記された木簡が、1988年に平安京・長屋王邸宅跡から出土している。

そのため、闘鶏稲置大山主の「闘鶏(つげ)」は、大和国山辺郡の地名で、奈良県都祁(つげ)村〔現在は奈良市〕といわれている。

神戸の氷室神社由緒には、「闘鶏稲置大山主は、今の村長にあたり、氷室神社社家の先祖になります」と書いてある。

日本書紀が編纂されたのは720年だが、額田大中彦皇子が氷室を見付けたのは374年のことなので、木簡だけでは奈良とはいえない。

額田大中彦皇子が献上した氷が、神戸の氷室神社にある氷室の氷だとしたら、氷室神社の氷室跡は小さくて狭い。

額田大中彦皇子が見付けた氷室は、神戸の氷室で、献上したのは奈良の氷室の氷の可能性もある。

神社自体は、神戸の氷室神社が歴史が古い。

額田大中彦皇子が見付けた氷室は、神戸なのか?奈良なのか?または別の場所なのか?謎である。




【雄鹿の夢が「夢野」の地名の起源】


昔、*雄伴郡(おとものごおり)に「夢野」というところがあった。

夢野は、はじめは「刀我野〔菟餓野〕(とがの)」と呼ばれていた。

所々にこんもりとした森があり、草原が広がり、小川には綺麗な水が流れていた。

そこに、一組の夫婦の鹿がいた。

この頃は、夫婦は一緒に住まず、夫が妻の家を訪問して翌朝帰って行く習慣だった。

ある時、雄鹿は遠くの海を渡った向こうの淡路の野島の雌鹿と仲良くなった。

雄鹿は、夢野の雌鹿を忘れてしまったかのように、来る日も来る日も、野島の雌鹿の所へ遊びに行った。

ある日、雄鹿か夢野の雌鹿の所へ、ひょっこり訪ねてきた。

一夜明け、目覚めた雄鹿は雌鹿に話した。

雄鹿:「昨夜。奇妙な夢を見た。一つは私が寝ている間に、私の背中にこんもりと雪が積もっている夢。もう一つは、私の背中一面にススキが生え茂っている夢。これは一体何の知らせだろう?良い夢なのか?悪い夢なのか?」

雌鹿:「それは悪い夢です。背中にススキが生えるのは、猟師の矢が体に立つということです。背中に雪が積もるのは、肉が塩漬けにされる知らせです。あなたが野島へ渡ると、猟師に海の上で射殺されるでしょう。」

雄鹿は、暫くは雌鹿の言う通りに夢野にいた。

しかし、野島の雌鹿のことが忘れられない雄鹿は、気持ちを抑えきれずに野島へ向かった。

海を泳ぎ、もうすぐ辿り着く少し手前で、岩へ上がって休んだ。

そこへ漁師が船に乗って現れ、雄鹿を射殺してしまった。

それから、この野原を夢野と呼ぶようになった。

「鹿の夢知らせは、良いように思えば良くなり、悪いように思えば悪くなる」と「夢野の鹿」のことわざになった。




【おわりに】


神戸に行くことが決まり、主人に「神戸の氷室神社が有名らしいよ。後で調べて見て」と言われた。

山沿いにある神社だったので行くのは辞めようと思った。

調べると、まさかの本で見て気になっていた「麛坂・忍熊皇子の祈狩」と「額田大中彦皇子の氷室の話」と関係する場所だった。

これは何かの縁だと思い、氷室神社を訪れたのだった。

主人が氷室神社の名前を出してなかったら、訪れていなかった。

氷室神社は、たくさん祠があり、不思議な場所だった。