五色塚(ごしきづか)古墳
小壺(こつぼ)古墳
【所在地】
兵庫県神戸市垂水区五色山
【五色塚古墳】
復元墳丘長:194.0m
後円部高:18.8m
前方部高:13.0m
後円部径:125.5m
前方部幅:82.4m
形状:前方後円墳
構造:竪穴式石室〔推定〕
構造年代:4世紀末〔古墳時代〕
出土品:円筒埴輪、形象埴輪
被葬者:*仲哀天皇の偽陵〔伝〕
*仲哀(ちゅうあい)天皇:第14代天皇。
中央よりもやや右側に飛行機 |
右に明石海峡大橋が見える |
入り口から見た五色塚古墳 |
後円部墳頂へと上る階段 |
後円部墳頂 |
前方部墳頂 |
後円部から見る明石海峡大橋 |
後円部から見る小壺古墳 |
【五色塚古墳の特徴】
明石の海岸段丘上に築かれた前方後円墳。
眼下には瀬戸内海の明石海峡が広がる。
*墳頂に上ることができるので、対岸の淡路島や明石海峡大橋を一望できる。
そして、円溝や*葺石(ふきいし)の様子、埴輪列などを間近に観察できる。
深い濠(ほり)と浅い溝で周囲を二重に囲んでいる。
兵庫県で一番大きな古墳。
西側には、小壺古墳が築かれている。
五色塚古墳、小壺古墳ともに国の史跡。
古墳に葬られた人は、明石海峡とその周辺を支配した豪族と考えられている。
または、西から海にやって来る諸豪族に古墳を見せ、「明石海峡から東はヤマトの大王の地」と知らしめる効果を狙ったという説もある。
つまり、西の敵からヤマトの大王の地を守っていたということだ。
五色塚の由来は、淡路島の五色浜から葺石が運ばれたからともいわれている。
*墳頂:古墳の一番高い部分。
*葺石:古墳の斜面に貼り付けるように敷かれた石。
【小壺古墳】
直径:70m
高さ:8.5m
形状:円墳
出土品・構造年代:五色塚古墳と同じ
【小壺古墳の特徴】
墳丘は2段に築かれた円墳。
斜面に石は葺かれていない。
墳丘斜面に平坦面を造らず、斜面全体に芝張りを行っている。
古墳の裾と濠の大部分は、周りの道路まで広がっている。
五色塚古墳と同様、濠の中には土橋が設けられている。
【日本初の復元整備事例の古墳】
五色塚古墳は、築造当時を再現した、日本で最初の復元整備が行われた古墳。
昭和40年から10年の歳月をかけて、発掘調査と復元工事が行われている。
五色塚古墳は、江戸時代には様々な人が訪れ、絵や文章などの記録を残している。
戦後は食糧難から畑として開墾され、荒廃してしまった。
しかし、発掘調査の結果、古墳の保存状態はよく、古墳は三段に築かれ、斜面にはびっしりと石が葺かれていた。
そして、各段の平面と頂上には、鰭付円筒埴輪(ひれつきえんとうはにわ)が立て並べられていた。
一番下の段の葺石は付近〔地元〕のもので、上二段の葺石は淡路島の東側の海岸で産出するものだった。
埴輪のほとんどが鰭付円筒埴輪で、4〜6本に1体の割合で鰭付朝顔形埴輪(ひれつきあさがおがたはにわ)が立てられていた。
濠の中には島状の土壇が造られている。
工事中に古墳の一部が壊れたり、時間の経過とともに雨水などの影響で保存が困難だったため、工法を改良しながら復元。
前方部は、全て古墳築造当時のものを利用。
後円部は、幅1mで7ヶ所だけ部分的に調査をし、復元の資料を得る。
そのため、全体に50㎝の盛土をし、その上に新たに購入した石を葺いているので、前方部と後方部は50㎝の違いがある。
しかし、墳頂へ上るためのくびれ部に設けた階段で、その差を解消している。
左:鰭付円筒埴輪 右:鰭付朝顔形埴輪 |
パンフレットで見る全体図 |
【前方後円墳と埴輪の豆知識】
前方後円墳は、ヤマト〔奈良〕に本拠をかまえた大王の政治に参加した人が造る形の古墳。
人物埴輪と円筒埴輪は、造られた時代が違う。
円筒埴輪は、人物埴輪よりも古く、弥生時代後期に遡る。
3世紀後半に円筒埴輪・壺形埴輪が登場。
4世紀に家形・器財形・動物形が出現。
5世紀以降に人物埴輪が造られた。
【五色塚古墳の最初の記述】
五色塚古墳に関する最初の記述は、日本書紀に見られる。
日本書紀には、「仲哀天皇の偽の墓で、葺石は淡路島から船で運んできた」と記されている。
しかし、偽物の墓にしては、他の古墳と同様に、丁寧に造られている。
そして、石室の石材が出土しているため、偽物とは考えにくい。
偽物の墓を造るために、わざわざ人員を集め、時間と手間をかけて造るだろうか。
【五色塚古墳の歴史】
五色塚古墳は、神功(じんぐう)皇后の三韓征伐〔新羅遠征〕に関する伝説の場所。
日本書紀に次のようなことが記されている。
*応神天皇:第15代天皇
*武内宿禰の詳細はこちら⇩
『武内宿禰と高良大社〜福岡県久留米市』
https://keipandkeip.blogspot.com/2021/08/blog-post_22.html
*麛坂・忍熊皇子の祈狩についてはこちら⇩
『氷室神社〜兵庫県神戸市兵庫区』
https://keipandkeip.blogspot.com/2023/04/blog-post_30.html
*住吉:大阪市住吉区。
*山背:京都府の中南部。
*菟道:京都府宇治市。
*倉見別:日本書紀にみられる豪族。仲哀天皇の死後、五十狭茅宿禰とともに麛坂・忍熊皇子の側についた。犬上氏の祖。
*瀬田:滋賀県の瀬田川。
*武振熊、五十狭茅宿禰については下で解説。
【武振熊(たけふるくま)】
武振熊は、難波根子(なにわのねこ)とも呼ばれる。
記紀にみられる人物で、古事記では「建振熊」と記されている。
武人。
仲哀天皇の死後、神功皇后の命により、武内宿禰とともに、忍熊皇子を討つ。
第16代・仁徳天皇の治世に、*飛騨に派遣された。
この時、皇命にそむき、人民を略奪する*宿儺(すくな)を誅殺した。
和珥〔和邇(わに)〕氏の祖。
*飛騨:岐阜県。
*宿儺:日本書紀にみられる怪人、鬼神。頭の後ろに顔があり、手足を2組持つ。力が強く、左右に剣を帯び、民を苦しめることを楽しみとした。
【五十狭茅宿禰(いさちのすくね)】
吉士〔吉志・吉師〕氏の祖。
吉士氏は、6〜7世紀にかけて朝鮮外交で活躍し、外交の中でも水軍で活躍した氏族。
五十狭茅宿禰は、記紀にみられる武人で、古事記では伊佐比宿禰と記されている。
初代の上海上国造(かみつうなかみのくにみやつこ)で、現在の千葉県市原市の一部を支配した国造。
主君は、仲哀天皇と神功皇后。
上記の通り、仲哀天皇が亡くなった後、麛坂・忍熊皇子の側につき、将軍として参加し、入水して亡くなった。
しかし、亡くなったとされる五十狭茅宿禰は、生田神社の由緒に登場する。
神功皇后は、五十狭茅に命じて稚日女尊を祀らせた。
『生田神社〜兵庫県神戸市中央区』
https://keipandkeip.blogspot.com/2023/03/blog-post.html
【おわりに】
突然、主人から「米津玄師のコンサートを見に神戸に行く」と告げられた。
兵庫県を訪れること自体が初めてだった。
不思議なことに、主人に話してないのに、前々から気になっていた「生田神社」と「麛坂・忍熊皇子と関連する場所」を主人が言い出した。
「生田神社知ってる?」
「氷室神社も神戸では有名みたいよ」
「五色塚古墳があるよ」
五色塚古墳を聞いた私は、「五色塚古墳は知らない初めて聞いた」と答えた。
しかし、五色塚古墳が気になった私は、今までに読んだ本に載っているのではないかと思い、本を読み返した。
すると、五色塚古墳のことが書いてあり、付箋まで付けて目立つようにしていた。
すっかり忘れていた私だった。
不思議と訪れる場所は神功皇后と武内宿禰に関する場所ばかりで、神戸は神功皇后に関する場所なので導かれたとしか思えない。
神戸観光で訪れた場所では、五色塚古墳が一番好きだった。
五色塚古墳は、びっくりするほど高さのある古墳だ。
周りに木が生い茂っていないので、古墳全体の写真を撮るには絶好のはずが、大きすぎて撮れない。
古墳が高く・大きすぎて、撮れた写真は古墳なのか何なのか分からない。
五色塚古墳に来たら、必ず墳頂に上ってほしい。
墳頂から見る景色は絶景だ。
明石海峡や明石海峡大橋が一番美しく見える場所だと思う。
そして、間違いなく、明石海峡と淡路島を綺麗に見通せる位置に、五色塚古墳が築造されていることが、誰が見ても分かる。
明石海峡を見通せる海沿いにあり、あまりにも高く・大きな古墳なので、本当に古墳なのか疑問に思う。
「本当にお墓なのか?貿易のための船着場や異国からの難民や移民を受け入れる場所だったのではないか?」と思った。
海沿いなので、国内だけではなく朝鮮半島とも貿易していた可能性もある。
鰭付朝顔形埴輪は、夜でも場所が分かるように、薪や油を燃やし、かがり火台のような役割だったかもしれない。
鰭付円筒埴輪は、調理をするための焚き火台の役割だったかもしれない。
訪れた人たちの旅の疲れを癒そうと、料理を振る舞っていたかもしれない。
「意外と当時の観光地だったりして」と思うとワクワクする。
こんなことを想像するのも古墳見学の醍醐味だったりする。
その他の前方後円墳はこちら⇩
『岩戸山古墳と磐井の乱』
https://keipandkeip.blogspot.com/2022/04/blog-post.html
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