【石人山古墳(せきじんさんこふん)】

所在地:福岡県八女郡広川町

墳丘長:107m

墳長:120m

前方部正面幅:54m、高さ6m

後円部直径:76m、高さ12m

形状:前方後円墳

構造:竪穴系横口式石室

築造年代:5世紀前半〜中頃(古墳時代中期)


前回と同様に石人山古墳も『岩戸山古墳』の『筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)』と関連する内容を書くので、下のブログを一読することをおすすめ。


↓ 『岩戸山古墳と磐井の乱』

https://keipandkeip.blogspot.com/2022/04/blog-post.html


【立地】

広川町の南側に耳納山地(みのうさんち)からのびてきている、東西10数㎞にわたる、狭長な丘陵がある。

石人山古墳は、この丘陵の西端付近に位置している。

石人山古墳は、前回書いた『弘化谷古墳』から徒歩6分くらいで着く。


↓ 前回のブログ記事

『弘化谷古墳と装飾壁画』

https://keipandkeip.blogspot.com/2022/04/blog-post_29.html


石人山古墳の敷地内に、広川町古墳公園資料館(こふんピア広川)がある。

弘化谷古墳や石人山古墳の資料展示を入館料無料で見ることができる。

分かりやすい展示と説明で、気軽に楽しく見学できる。


【出土品】

江戸時代から石棺全面が露出しており、盗掘されている。

しかし、墳丘や周辺部から表面採取された資料から、円筒埴輪・朝顔形円筒埴輪・形象埴輪(家形、楯、動物、人物)、須恵器(器台、壺、はそう)が見つかっている。


【石人山古墳の最大の特徴】

屋根形の石棺蓋に浮き彫りされた、幾何学文様が最大の特徴。

この幾何学文様は、直弧文(ちょっこもん)と重圏文(じゅうけんもん)の2種類の装飾文様で浮き彫りされている。


【墓主】

筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)の祖父とされている。

理由は、

・八女古墳群は西から東へ時代的に新しくなる傾向がある。

・石人山古墳の位置が、筑紫国造家累代(ちくしのくにみやつこけるいだい)の墓と思われる、八女丘陵の西の端にある。

・丘陵上の前方後円墳の中で一番古い。

・初期の須恵器が採集されている。

・筑紫国造磐井の生前に造った墓、岩戸山古墳の築造年代を考慮。

・5世紀前半に前方後円墳を造らせる地方の有力者は、磐井の何代か前の初代の筑紫国造と考えられる。


【外部施設】

標高約35mの丘陵の一部を利用して築造された前方後円墳で、後円部墳頂から平野部を一望できる。

前方部2段、後円部3段に築成されており、前方部は西に向いている。

北側くびれ部に『造り出し』を持っている。

反対の南側くびれ部にも『造り出し』が存在していたと考えられるが、開墾などで旧状を留めていない。

古墳の裾部には、幅1.2〜1.3mの周壕・周堤が約353mの長さで、楯型に取り巻いていた痕跡がみられる。

現在でも前方部西側と後円部東側に周堤が確認できる。

墳丘には*葺石(ふきいし)がされており、円筒埴輪や形象埴輪が巡っていたと思われる。

前方部と後円部の墳丘くびれ部分には、後円部の石棺入口を背にして、一体の『武装石人』が立っている。

まるで被葬者を守護しているかのようだ。

*葺石:古墳の墳丘斜面に河原石や礫石(れきいし)を積んだり、貼りつけるように葺(ふ)いたもの。


この中に武装石人がある








武装石人

石棺入口

石棺入口から見える武装石人









【造り出し】

古墳に直接取り付く、半円形や方形の壇状の施設。

中後期の大型前方後円墳の例がほとんどで、ごく一部の古墳のみに確認されている。

石人山古墳のように造り出しが2個あるのは珍しい。



【石室】

長さ3.9m、横幅2m

後円部の中央付近を現在の墳丘面から約4m掘り下げて設けられた『竪穴系横口式石室』

石室構築以前に納められた『家形石棺(いえがたせっかん)』が、石室内の空間を埋めて置かれている。


家形石棺









*緑泥片岩(りょくでいへんがん)の板石を平積みにし、石室の壁を造った後、同質で大型の扁平石材を『持送り』にして天井石とする構築法を用いている。

横口部の入口は、阿蘇溶結凝灰岩製(あそようけつぎょうかいがんせい)の板石を左右から袖石(そでいし)のように立てている。

西に開口し、古墳主軸に平行している。

内面は赤色に塗られていた痕跡があるが、上部石材の大半は失われている。

*緑泥片岩:地元で産出する平たく割れる緑色の石のこと。


【持送り】

最下部の基礎石の上に、扁平な石を積み上げ、上にいくにしたがって、次第に内側にせり出すように積む方法。

最上部に天井石をのせ、周囲の壁を力学的に安定させるので、石室を堅固にする。


【石棺】

阿蘇溶結凝灰岩製の4枚の板石を組み合わせ、その上に刳抜式(くりぬきしき)の屋根を被せた家形石棺。

屋根の両側に『棒状縄掛突起(ぼうじょうなわかけとっき)』がある。

棺の西側の壁に開口部を設けている。

刳抜式の屋根の蓋は、底辺長2.8m。

4枚の板石を組み合わせた身は、高さ1.4m・長さ2.3m。


【石棺の装飾文様】

家形石棺の石棺蓋(屋根部分)には、『重圏文(じゅうけんもん)』や『直弧文(ちょっこもん)』が浮き彫りされている。

東側の縄掛突起先端部にも『重圏文』が浮き彫りされている。

石棺棺蓋の全面が赤色に塗られていたとされている。

これらは最古期の装飾古墳として重要。


重圏文と直弧文









重圏文:屋根の上と縄掛突起先端に彫られた、二重丸の文様。

直弧文:屋根の下に彫られた、直線と帯状の弧線が組み合わされた文様。


【石人】

古墳の名前の由来になった、阿蘇溶結凝灰岩製の『武装石人』が、石人山古墳に一体ある。

高さ1.8m、三角板短甲(さんかくいたたんこう)と草摺(くさずり)をつけ、靫(ゆき)を背負い、武装した姿に彫刻されている。

左脇には石刀をつけるための抉り込み(えぐりこみ)がある。

短甲の右脇部分には、赤色に彩色された痕跡が微かに残っている。

現在、顔は潰れ、上半身の模様は不鮮明になっている。

地元では「せきじんさん」と呼ばれ、信仰の対象となっている。

肩や腰、手足などに痛みがある人が、石人の同じ部分をさすったり、たたいたりすると、それが治るとされていたようだ。

江戸時代の文献の模写図には、目・鼻・口、足元にもう一個の石人頭部が描かれているが、現存しない。

江戸時代の初めに、福島城(現在の八女公園一帯)の整備に、石人石馬を石垣の下積みに利用したため、石人石馬の姿が消えてしまった。


江戸時代に模写された石人図









【おわりに】

石人山古墳の石室は、保護施設に覆われており、のぞき込むようにして見学できる。

黒いカーテンを自分で開閉して見学する。


石室の保護施設









武装石人がある石人社から、剥き出しになった木の根や抉れた土の道などを見ながら石棺入口まで歩いていると、古墳の中にいるような不思議な感覚になる。

石人山古墳を見学していると、地元の年配の方が、「私が幼い頃、石人さんがその辺に転がっていたよ。珍しいものだから、わざわざ自転車をこいで見に来たよ。みんな見に来てたよ」と教えてくれた。

「えっ!その辺にですか!?」と少し驚いた。

その転がっていた石人はどこへ行ってしまったのだろうか…。

これだけ古墳が密集している地域に住んでいると、古墳があるのは当たり前になってしまう。

私は以前、古墳を毛嫌いしていたのだが、なぜか石人山古墳は初めて見た時から好きで、また見学したいと思った。

石人山古墳は、石室と石棺をあらわにしながらも、被葬者は推測だし、装飾文様の意味も不明、造り出しもあり、謎が多い。

直弧文は見れば見るほど不思議だ。

直弧文をパーツに分けて繋げていくと、一つの円や形になりそうな気がする。


石人山古墳の西側