【九州筑後地区の古墳】
福岡県八女市、八女郡広川町、久留米市、うきは市がある筑後地区は古墳だらけ。
中には、古墳案内の看板は立っているものの、物置状態になっている古墳もあり、見学しようにも躊躇する古墳もある。
きちんと保存してほしいとも思うのだが…。
それほど古墳が多いのだ。
【八女市と八女郡広川町の古墳】
筑後地区の中でも、八女市と八女郡広川町は古墳が密集しており、珍しい古墳も多い。
どの古墳もきちんと整備され、保存してある。
ほぼ全ての古墳が、自由に古墳の周囲を歩け、墳頂に登ることができる。
古墳を身近に体感することができるので楽しい。
また、無料で見ることができる立派な資料館、いわいの郷(八女市)、こふんピア広川(八女郡広川町)がある。
全ての人に楽しみながら、古墳を学んでほしいという愛を感じる資料館だ。
そして、この2つの資料館の側には、重要な古墳が存在する。
いわいの郷には『岩戸山古墳』、こふんピア広川には『弘化谷古墳』『石人山古墳』がある。
弘化谷古墳はこちら⇩
『弘化谷古墳と装飾壁画』
https://keipandkeip.blogspot.com/2022/04/blog-post_29.html
石人山古墳はこちら⇩
『石人山古墳と装飾文様』
https://keipandkeip.blogspot.com/2022/05/blog-post_15.html
その他の八女市の古墳⇩
『童男山古墳1号墳と徐福と愛の話』
https://keipandkeip.blogspot.com/2022/05/1.html
【岩戸山古墳】
所在地:福岡県八女市
墳丘長:135m
形状:前方後円墳
構造:横穴式石室
築造時期:6世紀前半
出土品:石製品、埴輪など
埋葬者:筑紫君磐井〔推定〕
九州地区北部で第1位の規模。
古墳が森になっているため、上空から見ないと前方後円墳の形は分からない。
内部に関しては未調査のため詳細が判明していない。
電気探査による調査では、横穴式石室の構造になっていることが判明。
岩戸山古墳は、日本古代史上最大の内乱『磐井の乱(いわいのらん)』を主導した、筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)が築造した。
『磐井の乱』は、527年に始まり、528年にヤマト王権によって鎮圧された。
【磐井(いわい)に関しての記述】
『日本書紀』
「筑紫国造(ちくしのくにのみやつこ)と記されている。
「国造」とは地方を治める長官のこと。
磐井はヤマト王権から筑紫国の統治を任されていたことになる。
『古事記』
「竺紫君石井(ちくしのきみいわい)」と記されている。
『筑紫国風土記』
「筑紫君磐井」として逸文の中では登場する。
【別区(べっく)】
岩戸山古墳の横には『別区』という43mの正方形の広場がある。
芝生の広場が『別区』、森が『岩戸山古墳』 |
『別区』は、日本で初めて裁判が行われた場所とされている。
全国で『別区』があるのは岩戸山古墳だけ。
奈良時代に作られた『筑後国風土記』に、
「解部(ときべ)という裁判官が、偸人(ぬすびと)が猪を盗んだ罪を裁いた」
と書いてある。
『別区』は、磐井が取り入れた、当時最先端の大陸文化だったのではないだろうか。
もし、大陸文化に詳しい『磐井』がヤマト王権に勝っていたら、日本の歴史や文化は変わっていたかもしれない。
【謎の石人・石馬】
古墳の周りには埴輪を並べるのが一般的だが、筑紫君一族(ちくしのきみいちぞく)は、あえてそれを取り入れず、地元の石で作った『石人・石馬』を並べた。
別区の広場にはたくさんの『石人・石馬』が並んでいた。
広場を埋めた『石人・石馬』は100体にも及んでいたと言われている。
しかし、ほとんどの『石人・石馬』の顔や手足は壊されている。
壊された『石人』を足の先まで復元すると、2m50㎝くらいの大きさになる。
実は、岩戸山古墳にも埴輪は立っているのだが、その埴輪は小さかったそうだ。
埴輪の傍らに巨大な『石人・石馬』を配列して、埴輪を見下している感じだった。
埴輪はヤマトの象徴。
『石人・石馬』はヤマトへの対抗心だったのだろう。
『磐井の乱』後、ヤマトの兵が『石人・石馬』の顔や手足を打ち落としたのだ。
別区にある『石人』 |
別区にある『石馬』 |
本物の石人 |
本物は資料館「いわいの郷」に展示してある。
資料館の中は、フラッシュを発光させなければ撮影OK。
【磐井の乱】
527年に起きた『磐井の乱』
この頃は日本はまだ統一国家ではなかった。
有力豪族が各地を治めていた。
ヤマトと地方豪族は対等でありながら、ゆるやかな上下関係にあった。
九州の豪族たちは、朝鮮半島への進出を目指すヤマト王権から、人・船・食糧を提供させられ、不満がたまっていた。
軍事・外交・内政、全てに自立し、財力を持つ磐井は、ついに火の国(現在の熊本県)・豊の国(現在の大分県)と力を合わせ、立ち上がった。
しかし、磐井は敗れ、この後、急速にヤマトの国家統一が進んだ。
『磐井の乱』は日本古代史上の大事件だった。
*いわいの郷に置いあるパンフレット「筑紫君磐井に会いたい」から引用
【日本書紀での磐井の乱の記述】
『継体天皇が磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)に入った翌年、筑紫君磐井の乱が起き、2年かけて鎮圧した』
『継体天皇が新羅征討のために、近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)は、6万の軍隊を派遣しようとしたのを、新羅と結託した磐井が妨害し、反乱を起こした』
『旗や鼓が相対し、塵芥入り乱れ、互いに必死に戦った』
と壮絶な戦闘であったことを記している。
【古事記での磐井の乱の記述】
『此(こ)の御世(みよ)、竺紫君石井(ちくしのきみいわい)、天皇の命に従わずして、多くの礼無し。故に物部荒甲之大連(もののべのあらかいのおおむらじ)、大伴之金村連(おおとものかねむらのむらじ)の二人して、岩井を殺せり』
「この時代に、筑紫君磐井は、天皇の命令に従わず、多くの無礼があった。そこで物部麁鹿火と、大伴金村の二人を遣して、岩井を殺させた」
と記している。
古事記では、先に攻撃したのはヤマト官軍だった。
磐井による九州勢力に危機感を覚え、磐井を制圧したのだろう。
【磐井の乱の終結】
527年に始まり、1年半にも及んだ戦いは、現在の福岡県久留米市御井町で最終決戦を行った。
磐井は斬られ、反乱は鎮圧された。
528年11月、ヤマト王権側の勝利で終結する。
【筑後国風土記では】
地方の産物や伝承を記録した『筑後国風土記』の逸文では、
『磐井は豊前国の山深い地に逃げた』
と記している。
磐井は反逆者ではなく、地元の人々を守るために立ち上がったのではないだろうか。
磐井は郷土の人々から愛されており、郷土の人々から助けられたのではないだろうか。
【臣・連とは】
近江毛野臣
(おうみのけぬのおみ)
物部麁鹿火大連(物部荒甲之大連)
(もののべのあらかいのおおむらじ)
大伴金村連
(おおとものかねむらのむらじ)
この3人の『臣(おみ)・大連(おおむらじ)・連(むらじ)』は名前ではない。
豪族のランクだ。
『臣』は、畿内に勢力を持つ有力豪族。
『連』は、ヤマト政権で重要な政権を担う人。
ヤマト政権は畿内を中心とした政権だった。
豪族のランク
- 大臣・大連
- 臣・連
- 君・値・造
【おわりに】
磐井の乱で勝った側、負けた側、それぞれに『思い』があったはずだ。
それは磐井の乱に限らず、他の戦いでも同じことが言える。
実際に古墳を体感し、その歴史を資料館で学ぶと、負けた側の『思い』が見えてくるものである。
岩戸山古墳を訪れると、「磐井は郷土を愛し、郷土の人を思う、優しくて一途な人だったのではないか」と感動して少し目が潤んだ。
墳頂への道 |
木が間引かれ光が差し込んでいる |
墳頂 |
【不思議な体験】
信じるか信じないかは別として、御伽噺と思って読んでほしい。
数年前、霊感のある人がこんなことを言っていた。
「岩戸山古墳は、磐井の乱で亡くなった人達が埋められています。九州北部・中国地方・近畿地方、日本列島の上部は中国大陸の一部でした。九州の南はまた別の国でした。磐井の乱は、上部の人達と九州の南の人達との戦いです」
岩戸山古墳は九州の北と南を分ける境界線で、八女市は九州の南だったようだ。
この話の詳細はこちら⇩
『過去世から会いに来た王様』
https://keipandkeip.blogspot.com/2021/07/previous-life.html
さらに不思議なことがあった。
資料館『いわいの郷』に行くと、
「3月24日、ミステリアス古墳スペシャルで岩戸山古墳が放送されました」
と写真を貼っていた。
見てみたいと思ったのだが、9日前に放送されていた。
数日後、録画した番組を確認していた主人が、
「ミステリアス古墳、これ、資料館に書いてあったやつじゃない?」
録画を確認するとそうだった。
日頃テレビを見ない私、内容も確認せずに、なぜか録画予約をしていたのだ。
録画予約をしていたことすら忘れていた。
不思議なことはまだ続く。
岩戸山古墳の前方部と別区で撮った写真に、虹のような明るい光が写っていた。
太陽光かと思ったのだが、前述の『ミステリアス古墳』の番組のゲストが、「岩戸山古墳を写真で撮ったら、緑色の虹が写った」と写真を公開していた。
その写真は別区で撮った写真だった。
私と同じような体験をしていたのだ。
偶然は存在しない、あるのは必然のみと思っているので、見えない何かに「岩戸山古墳に向き合うように、意識を向けるように」と言われたのかもしれない。
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