卑弥呼・卑弥弓呼神社〜鹿児島県霧島市

2022/09/16

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卑弥呼(ひみこ)・卑弥弓呼(ひみここ)神社



【所在地】


鹿児島県霧島市隼人町


前回書いた『鹿児島神宮』と石體神社の間にある神社。

鹿児島神宮から徒歩5分の場所にある。


鹿児島神宮と石體神社についてはこちら⇩

『鹿児島神宮』

https://keipandkeip.blogspot.com/2022/08/blog-post_28.html




【由緒と歴史】


卑弥呼・卑弥弓呼神社の案内看板には次のように書いてある。


 中国の史書「三国志」の「魏書」東夷伝の中で倭人について書かれている「魏志倭人伝」に卑弥呼(生年不明-247年あるいは248年頃)という女王が倭国(日本)にいて、邪馬台国に都をおいて支配していたと記載されている。 
 また狗奴国(くぬこく)には卑弥弓呼(ひみここ)という男王がいて邪馬台国の女王・卑弥呼と狗奴国の男王・卑弥弓呼は「*素より和せず」の戦闘状態であったが、この戦いの最中に卑弥呼は死去したという。
その男王・卑弥弓呼が隣接する鹿児島神宮の主祭神である天津日高彦火火出見尊〔山幸彦〕と密に関係があり、のちにヤマト王朝になったと推定され、ここに卑弥呼と卑弥弓呼の両者を祀り、わが国の平和と発展を願い創建された神社である。
             〔記 松下兼介〕 


*素(そ):卑弥弓呼のこと。






























【狗奴国】


「くなのくに」や「くなこく」ともいう。

狗奴国は、邪馬台国の南にあり、邪馬台国には所属せず、男王とする部族国家。

断髪で、入れ墨を施した海洋民族。

狗奴国の位置は、*肥後国(ひごこく)球磨(くま)とする『熊襲(くまそ)』説が有力。

他には、近畿の熊野(くまの)、四国の河野(かわの)、関東の毛野(けぬ)とする説がある。


*肥後国:熊本県




【熊襲】


熊襲とは熊襲族のことで、南九州に居住した部族。

「熊」は「球磨」熊本県人吉地方。

「襲」は「曽於(そお)」鹿児島県曽於地方。

球磨と曽於の両地域にまたがる地帯が、熊襲の居住地とされている。




【狗奴国の長官・狗古智卑狗】


男王・卑弥弓呼〔素〕の支配の元に、長官・狗古智卑狗(くこちひく)が置かれ、邪馬台国の支配に服せず独立国であった。

狗古智卑狗の名前から、肥後国菊池郡の菊池彦(くくちひこ)と解されており、熊本県菊池郡との関連があるとされている。

また、平安時代の中期に作られた辞書「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」には、「菊池」と書いて「久々知(くくち)」と注釈されている。

卑弥弓呼よりも先に記されていることから、狗古智卑狗が狗奴国の実権を握っていたとも考えられる。

長官名から次のように考える説もある。

「狗」は、「猛」のことで、男らしくて勇ましい勇者の意味の「建(たける)」のこと。

「古智」は、古い智恵という意味だが、古いの反対は新しいなので、「新しい智恵」のこと。

「卑狗」は、「ヒコ」のことで、「彦」「日高」「日子」のこと。




【狗奴国と邪馬台国の戦争】


邪馬台国は、女王国29ヶ国連合の連合体組織だった。

248年、狗奴国と邪馬台国は戦争。

*魏の調停により、一時平和を回復。

しかし、この間に邪馬台国の女王・卑弥呼は死亡。


*魏:220〜265年まで続いた中国の王朝の1つ。




【おわりに】


卑弥呼は、名前ではなく、役職名かもしれない。

当時は神権国家だったとすると、卑弥呼は女性シャーマン、卑弥弓呼は男性シャーマン?

狗奴国は、男性中心の強力な軍事国家だったのだろう。

そんなことを考えていると、卑弥呼に関する不思議な体験とその時に読んだ本を思い出し、「狗奴国の卑弥弓呼か狗古智卑狗は、大国主命のことなのでは?」と思えてきた。


本の内容はこちら⇩

『事代主大神の文字』

https://keipandkeip.blogspot.com/2021/07/kotoshironushinokami.html


卑弥呼に関する不思議な体験はこちら⇩

『卑弥呼①』

https://keipandkeip.blogspot.com/2021/07/himiko.html


『卑弥呼②』

https://keipandkeip.blogspot.com/2021/07/himiko-2.html


狗古智卑狗の「古智」は、温故知新・ふるきをたずねて新しきを知るのように思えてきた。

「狗」を「建」とする説から、神社の祭神や古代史に登場する「建」「武」「竹」などの「タケ」が付いた人物は、強い霊力を持った男性シャーマンのような気がする。

古代史に出てくる名前や地名は、漢字の意味で捉えるよりも、ひらがな・カタカナになおして、日本語〔大和言葉〕の発音の意味で捉えた方がいい。

大和言葉(やまとことば)の発音に、漢字をあてて表記していることが多いからだ。

漢字の意味で捉えるのと、大和言葉の発音で捉えるのとでは、歴史の見え方が変わってくることがある。

魏志倭人伝などの古代中国の文書を、日本語に訳すのはもっと大変だろう。

漢字をどう読むか、漢字をどこで区切るかで、解釈が異なってくるからだ。

例えば、「後漢書」東夷伝に次の記述がある。


「安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見」


現代語訳:「安帝の永初元年、倭国王の帥升等が奴隷160人を安帝に献上した」


現代語訳のように「帥升/等」と「帥升」と「等」に区切ると、「代表者の帥升と、その他に数人の国王たちが…献上した」となる。

「帥升等」を1人の名前とすると、「倭国の王の帥升等が…献上した」となる。

日本も中国も古代と現代とでは、言語や言葉遣いの違いもあるだろうし、古代中国の文書を現代語訳するのは大変だ。

大和言葉が文字を持たなかったのは、文明が遅れていたからではない。

縄文時代は、都市国家や文字がないので、原始的だったのではない。

古神道が謎なのは、文字や文書で、形として残していないからだ。

古神道は、形や文字を残さず、神と対話できる・テレパシーだけで交信できる者だけに伝承された。

神社には社殿や鳥居が建っているが、本来は祭事のときだけに組み上げ、祭事が終わると全て壊していた。

形として残さないのが古神道である。