野間神社
【所在地】
鹿児島県南さつま市笠沙町
【御祭神】
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
※瓊瓊杵尊の妻
火照命(ほでりのみこと)
※瓊瓊杵尊と木花咲耶姫命の第一子。
別称:海幸彦。
火闌降命(ほつせりのみこと)
※第二子。
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
※第三子。
別称:山幸彦。
天神七代(てんしんしちだい)
地祇五代(ちぎごだい)
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
大山祇命(おおやまつみのみこと)
猿田彦命(さるたひこのみこと)
事勝国勝長狭命(ことかつくにかつながさのみこと)
※塩土老翁(しおつちのおじ)
【天神七代】
天神七代は、天地開闢の時に現れた七柱の神。
日本書紀に記されている天神七代は以下の通り。
国常立尊(くにのとこたちのみこと)
国狭槌尊(くにのさつちのみこと)
豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)
埿土煮尊(ういじにのみこ)・沙土煮尊(すいじにのみこと)
※男女の神
大戸之道尊(おおとのじのみこと)・大苫辺尊(おおとまべのみこと)
※男女の神
面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)
※男女の神
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなぎのみこと)
※男女の神
【地祇五代】
地祇五代は、天神七代に続き、日本を治めた五柱の神。
地の神。
地祇五代は以下の通り。
天照大神(あまてらすおおみかみ)
天忍穂耳命(あまのおしほみみのみこと)
瓊瓊杵尊
彦火火出見尊
鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)
【由緒と歴史】
*三国名勝図会〔巻之二十七*河邊郡〕の野間神社の項目では、「勧請年月不明」と記されており、野間神社の創始年代は不明。
野間神社は、野間半島の野間岳の八合目に鎮座。
鹿児島半島最西端の野間岳は、標高591m、山岳信仰の対象となっている。
山腹には「笠狭宮〔宮ノ山遺跡〕」があり、神代の都があったとされている。
三国名勝図会によると、野間神社は、かつて野間嶽権現社と呼ばれ、野間岳の山頂にあり、東宮と西宮の二つの本殿があった。
東宮に瓊瓊杵尊・*鹿葦津姫命(かしつひめのみこと)を、西宮に火闌降命・彦火火出見尊・火照命を祀っていた。
後に西宮は、娘媽神女(のうましんにょ)、千里眼(せんりがん)、順風耳(じゅんぷうじ)が祀られるようになった。
明治時代の廃仏毀釈の際に、娘媽神女は追い出され、火闌降命・彦火火出見尊・火照命に戻った。
近くを往来する唐船〔中国の船〕も和船も、野間神社に祀られた娘媽神女を参礼した。
山頂の神社は、度重なる台風の被害で倒壊したため、1830年に野間岳八合目に遷座した。
東宮と西宮を統合し、一つの社殿を建てたが、その後も台風の被害にあい、コンクリートの社殿に作り替えられている。
野間神社は、航海の守護神・娘媽神女が祀られていたことから、今でも船乗りや漁業関係者の参拝が多い。
*三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)についてはこちら⇩
『揖宿神社〜鹿児島県指宿市』
https://keipandkeip.blogspot.com/2022/11/blog-post.html
*河邊郡:現在の鹿児島県南さつま市、枕崎市。
*鹿葦津姫:木花咲耶姫命。
【娘媽神女】
娘媽神女は、媽祖(まそ)のこと。
中国の沿岸部を中心に信仰を集める道教の女神。
媽祖は中国語で「ボサ」、「菩薩」と読めるところから、観音菩薩の化身ともいわれている。
媽祖は、千里眼と順風耳の二神を脇に従えている。
この二神は悪神〔鬼〕であったが、媽祖によって調伏され、改心した。
媽祖は、中国福建省の官使、林家の娘。
960年3月23日に生まれた。
生後一ヶ月経っても泣き声をあげなかったため、林黙娘(りんもうにゃん)と名付けられた。
16歳の時に黙娘は、神通力を得て、通賢霊女(つうけんれいじょ)と呼ばれ、崇められるようになった。
28歳の時に、父が海難事故で行方不明になり、嘆き悲しんだ黙娘は旅立つ。
やがて、峨眉山(がびざん)の山頂で仙人に導かれ、神様となった。
987年9月9日に修行を終えた媽祖は、晴天の日中に昇天した。
他にも別の伝承がある。
「父は助かったけれど、兄は溺れて死んだ」と予言した黙娘。
すると、海に出た父と兄は嵐で海難事故にあい、父は助かったが、兄は溺死していた。
黙娘は、海に身を投じ、航海の守護神となった。
野間岳の南、神渡しという浜〔神渡海岸〕に流れ着いた黙娘の遺体は、瑞々しく、まるで生きているようだった。
また、黙娘は舟に乗って漂着したともいわれている。
なので、野間岳に娘媽神女が祀られたのだという。
この話、鹿児島神宮の裏手の「奈毛木の杜(なげきのもり)」の蛭子の伝承と、舟に乗って漂着したという点がとても似ている。
奈毛木の杜の蛭子の伝承の詳細はこちら⇩
『鹿児島神宮』
https://keipandkeip.blogspot.com/2022/08/blog-post_28.html
【瓊瓊杵尊が上陸した地】
野間岳は、瓊瓊杵尊が最初に上陸した地。
日本書紀には次のように記されている。
「吾田〔阿多〕は、薩摩国の地名。
「笠狭〔笠沙〕」は、薩摩半島の西、現在の南さつま市笠沙町。
「笠狭の碕」は、野間半島。
瓊瓊杵尊が登ったとされる「竹島」は、野間岳。
【事勝国勝長狭命〔塩土老翁〕の登場】
瓊瓊杵尊が野間岳に上陸した後、日本書紀には次のように記されている。
つまり、事勝国勝長狭命から国を献上され、瓊瓊杵尊はそこに住んだということだ。
【瓊瓊杵尊と木花咲耶姫命の出会いの地】
瓊瓊杵尊が竹島に登った後、古事記には次のように記されている。
「神阿多都比売」は、木花咲耶姫命。
前述の通り「阿多」は「吾田」で、薩摩国の地名。
石長比売も選んでいたら、いつまでも硬く動かない岩のように、丈夫な体で命が長命だった。
木花咲耶姫だけを選んだので、木・花が栄えるように代々栄えるが、桜の花が散るように命が短命になった。
瓊瓊杵尊についての詳細は、瓊瓊杵尊のお墓がある新田神社に記載⇩
『新田神社〜鹿児島県薩摩川内市』
https://keipandkeip.blogspot.com/2022/08/blog-post.html
【おわりに】
野間の地名は、娘媽(のうま・ろーま)が由来になっているようだ。
廃仏毀釈の際、野間岳に祀られていた娘媽神女は、福建省から移住した林家に引き取られたそうだ。
野間神社を訪れたのは、瓊瓊杵尊が上陸した地だったから。
野間神社は、野間岳の麓「宮ノ山・登山口」から車で約25分。
結構細くて急な坂道を永遠と登って行かなければならない。
「本当にこの先に神社があるのか?道は合っているのか?」と何度も不安になった。
陽が沈みそうな時間に野間神社に着いた。
野間神社から山頂に登る道が気になった。
野間岳の山頂まで登ってみたいので、また訪れたい。
0 件のコメント:
コメントを投稿