野間神社〜鹿児島県南さつま市

2022/12/29

鹿児島 神社仏閣 日本の歴史 日本神話 木花咲耶姫 野間神社 媽祖 瓊瓊杵尊











野間神社




【所在地】


鹿児島県南さつま市笠沙町





【御祭神】


瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)


木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

※瓊瓊杵尊の妻


火照命(ほでりのみこと)

※瓊瓊杵尊と木花咲耶姫命の第一子。

 別称:海幸彦。


火闌降命(ほつせりのみこと)

※第二子。


彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)

※第三子。

 別称:山幸彦。


天神七代(てんしんしちだい)


地祇五代(ちぎごだい)


伊弉諾尊(いざなぎのみこと)


大山祇命(おおやまつみのみこと)


猿田彦命(さるたひこのみこと)


事勝国勝長狭命(ことかつくにかつながさのみこと)

※塩土老翁(しおつちのおじ)




【天神七代】


天神七代は、天地開闢の時に現れた七柱の神。

日本書紀に記されている天神七代は以下の通り。



国常立尊(くにのとこたちのみこと)


国狭槌尊(くにのさつちのみこと)


豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)


埿土煮尊(ういじにのみこ)・沙土煮尊(すいじにのみこと)

※男女の神


大戸之道尊(おおとのじのみこと)・大苫辺尊(おおとまべのみこと)

※男女の神


面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)

※男女の神


伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなぎのみこと)

※男女の神




【地祇五代】


地祇五代は、天神七代に続き、日本を治めた五柱の神。

地の神。

地祇五代は以下の通り。



天照大神(あまてらすおおみかみ)


天忍穂耳命(あまのおしほみみのみこと)


瓊瓊杵尊


彦火火出見尊


鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)




【由緒と歴史】


*三国名勝図会〔巻之二十七*河邊郡〕の野間神社の項目では、「勧請年月不明」と記されており、野間神社の創始年代は不明。

野間神社は、野間半島の野間岳の八合目に鎮座。

鹿児島半島最西端の野間岳は、標高591m、山岳信仰の対象となっている。

山腹には「笠狭宮〔宮ノ山遺跡〕」があり、神代の都があったとされている。

三国名勝図会によると、野間神社は、かつて野間嶽権現社と呼ばれ、野間岳の山頂にあり、東宮と西宮の二つの本殿があった。

東宮に瓊瓊杵尊・*鹿葦津姫命(かしつひめのみこと)を、西宮に火闌降命・彦火火出見尊・火照命を祀っていた。

後に西宮は、娘媽神女(のうましんにょ)、千里眼(せんりがん)、順風耳(じゅんぷうじ)が祀られるようになった。

明治時代の廃仏毀釈の際に、娘媽神女は追い出され、火闌降命・彦火火出見尊・火照命に戻った。

近くを往来する唐船〔中国の船〕も和船も、野間神社に祀られた娘媽神女を参礼した。

山頂の神社は、度重なる台風の被害で倒壊したため、1830年に野間岳八合目に遷座した。

東宮と西宮を統合し、一つの社殿を建てたが、その後も台風の被害にあい、コンクリートの社殿に作り替えられている。

野間神社は、航海の守護神・娘媽神女が祀られていたことから、今でも船乗りや漁業関係者の参拝が多い。


*三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)についてはこちら⇩

『揖宿神社〜鹿児島県指宿市』

https://keipandkeip.blogspot.com/2022/11/blog-post.html


*河邊郡:現在の鹿児島県南さつま市、枕崎市。


*鹿葦津姫:木花咲耶姫命。





【娘媽神女】


娘媽神女は、媽祖(まそ)のこと。

中国の沿岸部を中心に信仰を集める道教の女神。

媽祖は中国語で「ボサ」、「菩薩」と読めるところから、観音菩薩の化身ともいわれている。

媽祖は、千里眼と順風耳の二神を脇に従えている。

この二神は悪神〔鬼〕であったが、媽祖によって調伏され、改心した。


媽祖は、中国福建省の官使、林家の娘。

960年3月23日に生まれた。

生後一ヶ月経っても泣き声をあげなかったため、林黙娘(りんもうにゃん)と名付けられた。

16歳の時に黙娘は、神通力を得て、通賢霊女(つうけんれいじょ)と呼ばれ、崇められるようになった。

28歳の時に、父が海難事故で行方不明になり、嘆き悲しんだ黙娘は旅立つ。

やがて、峨眉山(がびざん)の山頂で仙人に導かれ、神様となった。

987年9月9日に修行を終えた媽祖は、晴天の日中に昇天した。

他にも別の伝承がある。

「父は助かったけれど、兄は溺れて死んだ」と予言した黙娘。

すると、海に出た父と兄は嵐で海難事故にあい、父は助かったが、兄は溺死していた。

黙娘は、海に身を投じ、航海の守護神となった。

野間岳の南、神渡しという浜〔神渡海岸〕に流れ着いた黙娘の遺体は、瑞々しく、まるで生きているようだった。

また、黙娘は舟に乗って漂着したともいわれている。

なので、野間岳に娘媽神女が祀られたのだという。

この話、鹿児島神宮の裏手の「奈毛木の杜(なげきのもり)」の蛭子の伝承と、舟に乗って漂着したという点がとても似ている。


奈毛木の杜の蛭子の伝承の詳細はこちら⇩

『鹿児島神宮』

https://keipandkeip.blogspot.com/2022/08/blog-post_28.html




【瓊瓊杵尊が上陸した地】


野間岳は、瓊瓊杵尊が最初に上陸した地。

日本書紀には次のように記されている。


『吾田(あた)の長屋(ながや)の笠狭の碕(かささのみさき)に到ります。遂に長屋の竹島(たかしま)に登ります』


「吾田〔阿多〕は、薩摩国の地名。

「笠狭〔笠沙〕」は、薩摩半島の西、現在の南さつま市笠沙町。

「笠狭の碕」は、野間半島。

瓊瓊杵尊が登ったとされる「竹島」は、野間岳。




【事勝国勝長狭命〔塩土老翁〕の登場】


瓊瓊杵尊が野間岳に上陸した後、日本書紀には次のように記されている。


吾田の長屋の笠狭の碕に一人の人が居た。
その人は「事勝国勝長狭命」と名乗った。
瓊瓊杵尊は、事勝国勝長狭命に質問した。
「ここに国はあるか?無いか?」
事勝国勝長狭命は答えた。
「ここに国はあります。好きなようにしてください」
瓊瓊杵尊は、そこに留まり、住んだ。


つまり、事勝国勝長狭命から国を献上され、瓊瓊杵尊はそこに住んだということだ。




【瓊瓊杵尊と木花咲耶姫命の出会いの地】


瓊瓊杵尊が竹島に登った後、古事記には次のように記されている。


『瓊瓊杵尊は、笠沙の碕にて美しい娘と出会い、その娘に質問した。
「誰の娘か?」
娘は答えた。
「大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘、名は、神阿多都比売(かむあたつひめ)と言います」
瓊瓊杵尊はまた質問した。
「お前には兄弟はいるのか?」
娘は答えた。
「姉の石長比売(いわながひめ)がおります」
瓊瓊杵尊は言った。
「私はお前と結婚しようと思う。どうか?」
娘は答えた。
「私はお返事を申し上げることができません。父の大山津見神が申し上げるでしょう」
瓊瓊杵尊は、大山津見神に結婚の約束を求めて使いをやった。
大山津見神はとても喜んで、姉の石長比売も添えて、たくさんの結納の品を献上した。
しかし、石長比売を見た瓊瓊杵尊は、恐ろしくなり、石長比売を送り返した。
石長比売は、たいそう醜かったのだ。
神阿多都比売だけを留めて、一晩床を共にした。』


「神阿多都比売」は、木花咲耶姫命。

前述の通り「阿多」は「吾田」で、薩摩国の地名。

代々の天皇の命が、人と同じ短い命になってしまったのは、瓊瓊杵尊が石長比売を送り返し、神阿多都比売〔木花咲耶姫〕だけを選んでしまったため。

石長比売も選んでいたら、いつまでも硬く動かない岩のように、丈夫な体で命が長命だった。

木花咲耶姫だけを選んだので、木・花が栄えるように代々栄えるが、桜の花が散るように命が短命になった。


瓊瓊杵尊についての詳細は、瓊瓊杵尊のお墓がある新田神社に記載⇩

『新田神社〜鹿児島県薩摩川内市』

https://keipandkeip.blogspot.com/2022/08/blog-post.html




【おわりに】


野間の地名は、娘媽(のうま・ろーま)が由来になっているようだ。

廃仏毀釈の際、野間岳に祀られていた娘媽神女は、福建省から移住した林家に引き取られたそうだ。

野間神社を訪れたのは、瓊瓊杵尊が上陸した地だったから。

野間神社は、野間岳の麓「宮ノ山・登山口」から車で約25分。

結構細くて急な坂道を永遠と登って行かなければならない。

「本当にこの先に神社があるのか?道は合っているのか?」と何度も不安になった。

陽が沈みそうな時間に野間神社に着いた。

野間神社から山頂に登る道が気になった。

野間岳の山頂まで登ってみたいので、また訪れたい。