多家神社(たけじんじゃ)
埃宮(えのみや)
【所在地】
広島県安芸郡府中町
【御祭神】
[主祭神]
神武天皇(じんむてんのう)
安芸津彦命(あきつひこのみこと)
[相殿神]
神功皇后(じんぐうこうごう)
応神天皇(おうじんてんのう)
大己貴命(おおなむちのみこと)
【由緒と歴史】
『神武東征』の一行が、7年間滞在した場所(日本書紀では2ヶ月)。
神武天皇の皇居が後に多家神社となった。
古事記では『多祁理宮(たけりのみや)』、日本書紀では『埃宮(えのみや)』と記されている。
菅原道真が編纂した、平安時代の法典『延喜式』には、*安芸国の名神大社三社の一つと記されている。
広島城の三の丸にあった稲荷神社を移築した『宝蔵(ほうぞう)』がある。
*安芸国の名神大社三社:多家神社・速谷神社・厳島神社。
【多家神社の創建と宝蔵】
中世になると武士の抗争により社運が衰退し、時とともに埃宮の所在が分からなくなってしまった。
江戸時代になると、たけい社のあった『松崎八幡宮』と安芸国の『総社』が、延喜式に記された多家神社と埃宮を互いに主張し、論争が絶えなかった。
1873年(明治6年)、松崎八幡宮と総社の両社を廃止。
1874年(明治7年)、現在の『誰曽廼森(たれそのもり)』に、社殿を造営し、広島城三の丸の稲荷神社の社殿を移築。
松崎八幡宮と総社の両社で祀られていた神を祀る『多家神社』が創建された。
両社に伝わる古記は、争いを避けるため、全て焼却したと言われている。
1915年(大正4年)、社殿の大半を焼失したが、社殿の一つである『宝蔵』は当時の姿をとどめており、現在する広島城の唯一の建物として広島県重要文化財に指定されている。
『宝蔵』は、校倉造(あぜくらづくり)と呼ばれる建築様式。
柱はなく、*校木(あぜき)を四方に組上げて壁とする建築方法で、壁が檜皮葺(ひわだぶき)の屋根を支えている。
校倉造は通気性がよく、宝物の保存に適している。
校倉造では、組上げる*校木に通常、断面が三角形を加工した五角形の木材を使用する。
多家神社の宝蔵は、四角形を加工した六角形の木材を使用しており、これは国宝『信貴山縁起絵巻(しぎさんえんぎえまき)に描かれているものと同じ。
現存する校倉の中では外に例がなく、実物が見れるのは貴重。
*校木(あぜき):太い柱。
宝蔵 |
【神武天皇】
名は、神倭伊波礼毘古尊(かむやまといわれびこのみこと)。
初代天皇。
紀元前660年即位。
【神武東征】
神倭伊波礼毘古尊が、日本を平定するために、九州の日向(宮崎県)から軍勢を率いて東進し、大和(奈良盆地とその周辺)を統治していた長髄彦(ながすねひこ)を滅ぼし、初めて天皇の位についた。
【神武東征の経路】
高千穂(宮崎県西臼杵郡高千穂町):陸路を進んで海へ辿り着く。
↓
美々津(宮崎県日向市):船出の地、船で回路を移動。
↓
宇佐(大分県宇佐市):宇佐一帯を統治する土地の民、ウサツヒコとウサツヒメのもてなしを受ける。
↓
岡田宮(おかだぐう)福岡県遠賀郡芦屋町:1年間滞在。
↓
埃宮(えのみや)広島県安芸郡府中町:7年間(日本書紀では2ヶ月)滞在。
↓
高島宮(たかしまのみや)岡山県玉野市:8年間(日本書紀では3年)滞在。
↓
難波の海に到着:草香(くさか)から上陸し、生駒山を越えて大和国に入ろうとするが、一帯を統治する長髄彦(ながすねひこ)に押し返される。
↓
熊野に上陸:熊野、宇陀(うだ)、忍坂(おさか)を経て、様々な豪族を平定。
↓
橿原(奈良県橿原市):畝傍山(うねびやま)の東南の麓に白橿原宮(かしはらのみや)を造営し、天皇に即位。
引用:多家神社(埃宮)ホームページ |
【安芸津彦命】
安芸国(広島県西半部)の開祖神。
安芸国の首長。
安芸津彦命の本拠地は、広島市西部の火山(ひやま)周辺とされている。
神倭伊波礼毘古尊の軍勢が広島湾に入港した際に、安芸津彦命が火山の山頂でのろしを上げたという伝承がある。
安芸津彦命は、『神武東征』の軍勢が入港した知らせを受けると、五日市の倉重まで迎えに行き、神倭伊波礼毘古尊を歓迎し、もてなした。
平安時代の史書『先代旧事本紀』では、天湯津彦命(あめのゆつひこのみこと)として登場し、*阿尺国造(あさかのくにのみやつこ)や*伊久国造(いくのくにのみやつこ)の祖とされている。
*阿尺国:福島県郡山市。
*伊久国:宮城県角田市。
【先代旧事本紀と天湯津彦命】
先代旧事本紀は、平安時代前期の史書。
天地開闢(てんちかいびゃく)から第33代・推古天皇までの歴史が記されている。
史書の中でもより霊的に記されているのが先代旧事本紀。
第3巻『天神本紀』
神武東征以前に、物部氏の祖・饒速日命(にぎはやひのみこと)が、尾張連(おわりのむらじ)や中臣連(なかとみのむらじ)など、各地の豪族の祖を従えて天下った。
天湯津彦命もその一人。
と記されている。
第10巻『国造本紀』
神武東征に功績があった者を国造や県主(あがたぬし)に定めた。
第13代・成務天皇の頃、
阿岐国造(広島県)に、天湯津彦命の5世孫・飽速玉命(あきはやたまのみこと)を国造に定めた。
阿尺国造(福島県)に、天湯津彦命の10世孫・比止禰命(ひとねのみこと)を国造に定めた。
伊久国造(宮城県)に、天湯津彦命の10世孫・豊嶋命(としまのみこと)を国造に定めた。
と記されている。
比止禰命と豊嶋命は、安芸国より未開の地に赴き、国を開いたとされる。
国造(くにのみやつこ)・連(むらじ)については、こちらのブログで説明 ↓
『岩戸山古墳と磐井の乱』
https://keipandkeip.blogspot.com/2022/04/blog-post.html
成務天皇と県(あがた)・国造などの行政区分に関するブログ記事 ↓
『八阪神社と不思議な狛犬〜佐賀県有田町』
https://keipandkeip.blogspot.com/2022/06/blog-post.html
【御腰掛岩】
神武天皇が腰掛けて休んだとされる『御腰掛岩』が、松崎八幡宮跡に残っている。
【誰曽廼森(たれそのもり)】
神武天皇が、
「曽(そ)は誰(たれ)そ」=「あなたは誰ですか?」
と土地の者に尋ねたことからこの名がついた。
古代の広島湾は、平野の奥深くまで海が入り込み、誰曽廼森は岬だった可能性がある。
【摂末社】
貴船神社(きふねじんじゃ)
[御祭神]
高龗神(たかおかみのかみ)
別雷神(わけいかづちのかみ)
大山津見神(おおやまづみのかみ)
貴船神社 |
【おわりに】
松崎八幡宮と総社の多家神社と埃宮の論争対立を知り、少し笑ってしまった。
両社の廃止と古記を焼却したことは、相当な覚悟と勇気がないとできないだろうし、再び争いが起きないようにと徹底した取組みは、素晴らしいと思った。
両社を統合し、新しく創建した多家神社に、心が和む。
和解と統合は、今の時代に相応しいというか、必要なことだと感じた。
宝蔵については書くつもりはなかったのだが、宝蔵を撮った写真3枚(1枚は宝蔵の解説板)全てに光が写っていたので、書くことにした。
光は何なのだろうか?
何かに気付くようにと教えているのだろうか?
【多家神社の宝蔵】で述べた、信貴山縁起絵巻は、奈良県生駒郡平群町信貴山にある朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)が所蔵。
原本は奈良国立博物館に寄託されている。
奈良県生駒というのも気になる。
多家神社は緑豊かな森となっており、とても静かだった。
神社の周りは閑静な住宅地で、「この町はいいな」と思いながら神社を後にした。
多家神社も町もとても居心地がよかった。
また訪れたい。
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