須佐能袁神社(すさのおじんじゃ)
【所在地】
福岡県久留米市草野町
【御祭神】
[主神]
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
[向かって右座]
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
[左座]
菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
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| 拝殿 |
【由緒と歴史】
1197年(建久8年)、筑後在国司の*竹井城主・草野永平(くさのながひら)が、京都の八坂神社より勧請し、創建された。
草野町周辺は、平安末期より豪族・草野氏(くさのうじ)の城下町として栄えた。
創建当時は、「草野祇園社」といわれていた。
草野家代々の守護神として祀られてきた。
約400年続いた草野家が滅亡後は、草野町の氏神として崇敬されている。
1871年(明治4年)の神仏分離政令により、地元では「ぎおんさん」の愛称で親しまれている。
本殿・拝殿・楼門は、1957年(昭和32年)、県の文化財に指定された。
総ケヤキ造りの社殿や楼門には、精緻な彫刻が施されている。
境内には、推定樹齢300年の5株のキリシマツツジがある。
偶数年の7月中旬~下旬に開催される神幸祭では、風流獅子舞や大名行列が行われる。
*竹井城:草野鎮永(しずなが)が築いた発心城に本城を移した際に廃墟。
【草野永平】
草野永平(くさのながひら)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。
草野大夫永平(くさのだゆうながひら)、草野太郎大夫永平、草野次郎大夫永平とも称されている。
藤原道隆(ふじわらのみちたか)の血を引く高木氏の出身。
筑後国を拠点とする草野氏の祖。
*肥前国の松浦党に属する武士で、後に*筑後国*草野庄を支配した。
1164年(平安時代末期)、永平の父・永経(ながつね)の代に、肥前国*高木から入国し、竹井城に居城したといわれている。
永平は、肥前国の高木氏とともに平家に属せず、源氏方に忠節を果たした。
源平争乱期に源氏方につき、源頼朝(みなもとのよりとも)に従った。
源頼朝の推薦で、永平が元々務めていた筑後国の*在国司(ざいこくし)と*押領使(おうりょうし)の職を、朝廷から正式に任命される。
現在の佐賀県唐津市の鏡山の麓にある、鏡神社の大宮司を兼ねて務めていた。
約800年以上、鏡神社の社領を治めていたが、戦国期に滅亡した。
永平の孫・経永(つねなが)は、蒙古襲来に出陣し、敵の船を分捕り、大手柄を立てる。
*肥前国:現在の佐賀県全域と壱岐・対馬を除く長崎県。
*筑後国:現在の福岡県。
*草野庄:現在の福岡県久留米市草野町周辺。
*高木:現在の佐賀県佐賀市高木瀬東付近。
*在国司:都にいて現地に行かない国司の代わりに、在地で政務を行う役職。九州地方に多い。
*押領使:地方の治安維持や軍事的な役職。
【吾妻鏡に記された永平と頼朝】
吾妻鏡(あずまかがみ)とは、1180年~1266年(鎌倉時代中期)までの87年間に起きた出来事を記した歴史書。
作者不明。
一人の作者による創作ではなく、幕府という組織によって集大成された史料。
幕府の事績を日記形式の編年体で記している。
源頼朝が死去した1196年~1199年の3年間の記録がないなど、記録が欠落している年がいくつかある。
「吾妻鏡 第六巻 文治二年(1186年)閏七月二日条」に次のように記されている。
[原文]
二品令擧草野大夫永平所望事依有殊功也。
御書云。
平家背朝威企謀叛鎮西之輩。
大略雖相從彼逆徒筑後國住人草野大夫永平仰朝威致無貳忠訖。
仍筑後國在國司押領使兩軄。
爲本軄之間可知行之由雖申之。
如此事非頼朝成敗候御奉行之由承及候。
有御奉聞。
可充給永平候。
恐皇謹言。
[書き下し]
二品(にほん)、草野大夫永平の所望(しょもう)の事を挙げしめたまう。殊功(しゅこう)あるに依(よ)るなり。
御書に云(いわ)く、
平家、朝威(ちょうい)に背(そむ)きて謀叛(むほん)を企(くわだ)つ鎮西の輩(やから)なり。
大略(たいりゃく)彼(か)の逆徒(ぎゃくと)に相従(あいしたが)うと雖(いえど)も、筑後国住人草野大夫永平、朝威を仰(あお)ぎ、貳(ふたごころ)無き忠(ちゅう)を致(いた)し訖(おわ)んぬ。
仍(よ)って筑後国在国司(ちくごのくにざいこくし)・押領使(おうりょうし)両職(りょうしょく)、
本職(ほんしょく)たるの間(あいだ)、これを知行(ちぎょう)すべきの由(よし)申(もう)し候(そうろう)と雖も、
かくのごとき事は、頼朝の成敗(せいばい)に候に非(あら)ず、御奉行(ごぶぎょう)の由と承り及(およ)び候。
御奉聞(ごそうもん)有りて、
永平に充(あ)て給(たま)うべく候。
恐皇謹言(きょうこうきんげん)。
[現代語]
二品(高位の皇族・親王)が、草野大夫永平の望みの件を取り上げた。特別な功績があったためである。
御書にはこう書かれている。
平家は、朝廷の威に背き、反逆を企てた鎮西(九州)の者たちである。
おおよそは彼ら反逆者に従っていたが、筑後国の住人である草野大夫永平は、朝廷の威を仰ぎ、書き尽くせないほどの忠義を尽くした。
そこで、筑後国の在国司と押領使の両職は、
本来の職であるので、これを知行させてほしいと申し上げました。しかし、
このことは、頼朝の失脚によるものではなく、御奉行の判断であると承りました。
朝廷に奏聞して、
永平に与えてくださるようお願い申し上げます。
恐れながら謹んで申し上げます。
【素戔嗚尊】
素戔嗚尊は、三貴子の第三子。
黄泉国(よもつくに)から帰還した伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が禊の際、左目を洗うと天照大御神、右目を洗うと月読尊(つくよみのみこと)、鼻を洗うと素戔嗚尊が誕生した。
第一子は、天照大御神、素戔嗚尊の姉。
第二子は、月読尊、素戔嗚尊の兄。
[素戔嗚尊に関する記事]
天照大神と素戔嗚尊の誓約について↓
『新田神社~鹿児島県薩摩川内市』
https://keipandkeip.blogspot.com/2022/08/blog-post.html
素戔嗚尊を祀る神社↓
『日御碕神社~島根県出雲市大社町』
『須我神社~島根県雲南市』
https://keipandkeip.blogspot.com/2021/07/blog-post.html
素戔嗚尊が八岐大蛇退治の際、稲田姫を隠した場所↓
『八重垣神社~島根県松江市佐草町』
https://keipandkeip.blogspot.com/2021/07/blog-post_11.html
素戔嗚尊の子を祀る神社↓
『賣布神社~島根県松江市和多見町』
https://keipandkeip.blogspot.com/2021/07/blog-post_14.html
『揖夜神社と黄泉比良坂と意宇の杜~島根県松江市』
https://keipandkeip.blogspot.com/2021/07/blog-post_10.html
【須佐能袁神社の本殿、拝殿、楼門】
福岡県の文化財。
1881年(明治14年)に起工、1886年(明治19年)に楼門・拝殿・本殿が完成。
現在の社殿は、氏子の寄進により再建されたもの。
楼門は、重厚感と風格を兼ね備えた独特の外観を持つ入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺。
拝殿は、入母屋造、檜皮葺で、拝殿の後ろに幣殿が続く。
本殿は、入母屋造、檜皮葺で、正面を柱と屋根だけで空間を開放。
本殿と拝殿を一体化した、神仏習合の影響を受けた権現造のような屋根をしている。
楼門・拝殿・本殿の随所に、精緻な彫刻が施されている。
入口の鳥居、太鼓橋、楼門、拝殿、本殿が、一直線に並んで配置されている。
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楼門 |
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拝殿と本殿 |
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太鼓橋 |
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太鼓橋から見た楼門 |
【摂末社】
[粟島社]
御祭神:少名毘古那神(すくなひこなのかみ)
大国主命と国造りをした神。
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粟島社 |
[月弓社]
御祭神:月弓尊(つきゆみのみこと)
月読尊のこと。
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月弓社 |
[秋葉社]
御祭神:迦具土神(かぐつちのかみ)
火の神。
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秋葉社 |
他にも多くの摂末社がある。
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境内には多くの祠がある |
【おわりに】
直線に沿って規則正しく並んだ、鳥居・太鼓橋・楼門・拝殿・本殿の配置は、統一感と調和が美しい。
須佐能袁神社を訪れた際は、ぜひ、境内入口の鳥居から一直線に拝殿まで歩いてほしい。
そして、楼門・拝殿・本殿の随所に施された精緻な彫刻を観察してほしい。
龍、象、鳥、亀に乗る翁などの彫刻が、今にも動きそうだ。
鳥居の龍も美しく、立ち止まって見てしまう。
太鼓橋も庭園も美しく、その先にある楼門と拝殿に目を奪われる。
重厚感と安心感を兼ね備えた神社である。










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