須佐能袁神社~福岡県久留米市

2026/04/10

スサノオ 神社仏閣 須佐能袁神社 草野永平 日本の歴史 福岡

 



須佐能袁神社(すさのおじんじゃ)




【所在地】


福岡県久留米市草野町




【御祭神】


[主神]

素戔嗚尊(すさのおのみこと)


[向かって右座]

天照大御神(あまてらすおおみかみ)


[左座]

菅原道真公(すがわらのみちざねこう)


拝殿




【由緒と歴史】


1197年(建久8年)、筑後在国司の*竹井城主・草野永平(くさのながひら)が、京都の八坂神社より勧請し、創建された。

草野町周辺は、平安末期より豪族・草野氏(くさのうじ)の城下町として栄えた。

創建当時は、「草野祇園社」といわれていた。

草野家代々の守護神として祀られてきた。

約400年続いた草野家が滅亡後は、草野町の氏神として崇敬されている。

1871年(明治4年)の神仏分離政令により、地元では「ぎおんさん」の愛称で親しまれている。

本殿・拝殿・楼門は、1957年(昭和32年)、県の文化財に指定された。

総ケヤキ造りの社殿や楼門には、精緻な彫刻が施されている。

境内には、推定樹齢300年の5株のキリシマツツジがある。

偶数年の7月中旬~下旬に開催される神幸祭では、風流獅子舞や大名行列が行われる。


*竹井城:草野鎮永(しずなが)が築いた発心城に本城を移した際に廃墟。




【草野永平】


草野永平(くさのながひら)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。

草野大夫永平(くさのだゆうながひら)、草野太郎大夫永平、草野次郎大夫永平とも称されている。

藤原道隆(ふじわらのみちたか)の血を引く高木氏の出身。

筑後国を拠点とする草野氏の祖。

*肥前国の松浦党に属する武士で、後に*筑後国*草野庄を支配した。

1164年(平安時代末期)、永平の父・永経(ながつね)の代に、肥前国*高木から入国し、竹井城に居城したといわれている。

永平は、肥前国の高木氏とともに平家に属せず、源氏方に忠節を果たした。

源平争乱期に源氏方につき、源頼朝(みなもとのよりとも)に従った。

源頼朝の推薦で、永平が元々務めていた筑後国の*在国司(ざいこくし)と*押領使(おうりょうし)の職を、朝廷から正式に任命される。

現在の佐賀県唐津市の鏡山の麓にある、鏡神社の大宮司を兼ねて務めていた。

約800年以上、鏡神社の社領を治めていたが、戦国期に滅亡した。

永平の孫・経永(つねなが)は、蒙古襲来に出陣し、敵の船を分捕り、大手柄を立てる。


*肥前国:現在の佐賀県全域と壱岐・対馬を除く長崎県。


*筑後国:現在の福岡県。


*草野庄:現在の福岡県久留米市草野町周辺。


*高木:現在の佐賀県佐賀市高木瀬東付近。


*在国司:都にいて現地に行かない国司の代わりに、在地で政務を行う役職。九州地方に多い。


*押領使:地方の治安維持や軍事的な役職。




【吾妻鏡に記された永平と頼朝】


吾妻鏡(あずまかがみ)とは、1180年~1266年(鎌倉時代中期)までの87年間に起きた出来事を記した歴史書。

作者不明。

一人の作者による創作ではなく、幕府という組織によって集大成された史料。

幕府の事績を日記形式の編年体で記している。

源頼朝が死去した1196年~1199年の3年間の記録がないなど、記録が欠落している年がいくつかある。


「吾妻鏡 第六巻 文治二年(1186年)閏七月二日条」に次のように記されている。



[原文]


二品令擧草野大夫永平所望事依有殊功也。

御書云。

平家背朝威企謀叛鎮西之輩。

大略雖相從彼逆徒筑後國住人草野大夫永平仰朝威致無貳忠訖。

仍筑後國在國司押領使兩軄。

爲本軄之間可知行之由雖申之。

如此事非頼朝成敗候御奉行之由承及候。

有御奉聞。

可充給永平候。

恐皇謹言。



[書き下し]


二品(にほん)、草野大夫永平の所望(しょもう)の事を挙げしめたまう。殊功(しゅこう)あるに依(よ)るなり。

御書に云(いわ)く、

平家、朝威(ちょうい)に背(そむ)きて謀叛(むほん)を企(くわだ)つ鎮西の輩(やから)なり。

大略(たいりゃく)彼(か)の逆徒(ぎゃくと)に相従(あいしたが)うと雖(いえど)も、筑後国住人草野大夫永平、朝威を仰(あお)ぎ、貳(ふたごころ)無き忠(ちゅう)を致(いた)し訖(おわ)んぬ。

仍(よ)って筑後国在国司(ちくごのくにざいこくし)・押領使(おうりょうし)両職(りょうしょく)、

本職(ほんしょく)たるの間(あいだ)、これを知行(ちぎょう)すべきの由(よし)申(もう)し候(そうろう)と雖も、

かくのごとき事は、頼朝の成敗(せいばい)に候に非(あら)ず、御奉行(ごぶぎょう)の由と承り及(およ)び候。

御奉聞(ごそうもん)有りて、

永平に充(あ)て給(たま)うべく候。

恐皇謹言(きょうこうきんげん)。



[現代語]


二品(高位の皇族・親王)が、草野大夫永平の望みの件を取り上げた。特別な功績があったためである。

御書にはこう書かれている。

平家は、朝廷の威に背き、反逆を企てた鎮西(九州)の者たちである。

おおよそは彼ら反逆者に従っていたが、筑後国の住人である草野大夫永平は、朝廷の威を仰ぎ、書き尽くせないほどの忠義を尽くした。

そこで、筑後国の在国司と押領使の両職は、

本来の職であるので、これを知行させてほしいと申し上げました。しかし、

このことは、頼朝の失脚によるものではなく、御奉行の判断であると承りました。

朝廷に奏聞して、

永平に与えてくださるようお願い申し上げます。

恐れながら謹んで申し上げます。




【素戔嗚尊】


素戔嗚尊は、三貴子の第三子。

黄泉国(よもつくに)から帰還した伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が禊の際、左目を洗うと天照大御神、右目を洗うと月読尊(つくよみのみこと)、鼻を洗うと素戔嗚尊が誕生した。

第一子は、天照大御神、素戔嗚尊の姉。

第二子は、月読尊、素戔嗚尊の兄。



[素戔嗚尊に関する記事]


天照大神と素戔嗚尊の誓約について↓

『新田神社~鹿児島県薩摩川内市』

https://keipandkeip.blogspot.com/2022/08/blog-post.html


素戔嗚尊を祀る神社↓

『日御碕神社~島根県出雲市大社町』


『須我神社~島根県雲南市』

https://keipandkeip.blogspot.com/2021/07/blog-post.html


素戔嗚尊が八岐大蛇退治の際、稲田姫を隠した場所↓

『八重垣神社~島根県松江市佐草町』

https://keipandkeip.blogspot.com/2021/07/blog-post_11.html


素戔嗚尊の子を祀る神社↓

『賣布神社~島根県松江市和多見町』

https://keipandkeip.blogspot.com/2021/07/blog-post_14.html


『揖夜神社と黄泉比良坂と意宇の杜~島根県松江市』

https://keipandkeip.blogspot.com/2021/07/blog-post_10.html




【須佐能袁神社の本殿、拝殿、楼門】


福岡県の文化財。

1881年(明治14年)に起工、1886年(明治19年)に楼門・拝殿・本殿が完成。

現在の社殿は、氏子の寄進により再建されたもの。

楼門は、重厚感と風格を兼ね備えた独特の外観を持つ入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺。

拝殿は、入母屋造、檜皮葺で、拝殿の後ろに幣殿が続く。

本殿は、入母屋造、檜皮葺で、正面を柱と屋根だけで空間を開放。

本殿と拝殿を一体化した、神仏習合の影響を受けた権現造のような屋根をしている。

楼門・拝殿・本殿の随所に、精緻な彫刻が施されている。

入口の鳥居、太鼓橋、楼門、拝殿、本殿が、一直線に並んで配置されている。


楼門


拝殿と本殿


太鼓橋


太鼓橋から見た楼門




【摂末社】


[粟島社]


御祭神:少名毘古那神(すくなひこなのかみ)


大国主命と国造りをした神。


粟島社


[月弓社]


御祭神:月弓尊(つきゆみのみこと)


月読尊のこと。


月弓社


[秋葉社]


御祭神:迦具土神(かぐつちのかみ)


火の神。


秋葉社


他にも多くの摂末社がある。

 

境内には多くの祠がある




【おわりに】


直線に沿って規則正しく並んだ、鳥居・太鼓橋・楼門・拝殿・本殿の配置は、統一感と調和が美しい。

須佐能袁神社を訪れた際は、ぜひ、境内入口の鳥居から一直線に拝殿まで歩いてほしい。

そして、楼門・拝殿・本殿の随所に施された精緻な彫刻を観察してほしい。

龍、象、鳥、亀に乗る翁などの彫刻が、今にも動きそうだ。

鳥居の龍も美しく、立ち止まって見てしまう。

太鼓橋も庭園も美しく、その先にある楼門と拝殿に目を奪われる。

重厚感と安心感を兼ね備えた神社である。