霧島神宮(きりしまじんぐう)
【所在地】
鹿児島県霧島市霧島田口
【御祭神】
天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊
(あめにぎしくににぎしあまつひだかひこほのににぎのみこと)
*瓊瓊杵尊の正式名、天照皇大神の孫
【相殿】
・木花開耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)
*瓊瓊杵尊の妻
・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
*瓊瓊杵尊の子
・豊玉姫尊(とよたまひめのみこと)
*彦火火出見尊の妻
・鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)
*瓊瓊杵尊の孫
・玉依姫尊(たまよりひめのみこと)
*鸕鷀草葺不合尊の妻、豊玉姫尊の妹
・神倭磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)
*瓊瓊杵尊の曾孫、初代・神武天皇(じんむてんのう)
【由緒と歴史】
霧島神宮は、瓊瓊杵尊の*皇霊(こうれい)が祀られている。
相殿には、皇神六柱(すめがみろくはしら)が合わせて祀られている。
社伝によると、創建は540年に慶胤(けいいん)という僧が、*高千穂峰(たかちほのみね)
と*御鉢(おはち)の間にある脊門丘(せとお)に社殿を建てたのが始まりとされている。
950年に*性空(しょうくう)という僧が*高千穂河原(たかちほがわら)に移転させるなど、度重なる火山の噴火により、何度も社殿の移転を繰り返した。
現在の場所に社殿が造られたのは1484年。
かつて*霧島六社権現の一社だった霧島神宮の境内には、華林寺(けりんじ)という*別当寺があった。
華林寺からの出火により社殿は全焼し、1715年に再建されたのが現在の社殿。
*皇霊:歴代天皇の神霊。
*御鉢:九州南部に連なる霧島山の高千穂峰の西にある火山。
*別当寺:神仏習合が行われていた江戸時代以前にあった、神社を管理する寺のこと。
別当とは社僧の長のことで、別当のいる寺を別当寺と称した。
*高千穂峰、御鉢、高千穂河原の詳細はこちら⇩
『天孫降臨の地~高千穂峰と天逆鉾』
https://keipandkeip.blogspot.com/2022/03/blog-post_25.html
*性空、霧島六社権現の詳細はこちら⇩
『白鳥神社~宮崎県えびの市』
https://keipandkeip.blogspot.com/2024/01/blog-post.html
窪んでいる山が御鉢 |
御鉢内部 |
霧島神宮元宮 |
高千穂河原 霧島神宮古宮址 |
【国宝と重要文化財の社殿】
国宝は、本殿、幣殿、拝殿。
重要文化財は、登廊下、勅使殿、門守神社2棟〔境内社〕、神饌所1棟。
社殿の内部は一般公開されていないので、参拝者は入ることはできない。
高千穂峰の山頂に向かって社殿が配置されている。
社殿は、溶岩の流れた境内の傾斜地の高低差を利用し、傾斜地に石垣を築いて建てられている。
最も高い位置に本殿を構えた造りとなっている。
上から本殿、幣殿、拝殿、登廊下、勅使殿と並んでいる。
平地〔正面〕にある勅使殿と斜面にある拝殿は、登廊下で繋がっている。
勅使殿から登廊下は、急勾配の階段になっている。
拝殿と幣殿は、勅使殿から見上げるほどの高低差がある。
高低差は、社殿の内部でもあらわれている。
この高低差により高さや奥行きなどの遠近感がより強調され、社殿は遠くから見てもダイナミックでインパクトがある。
本殿には、赤、青、緑に塗られた竜の彫刻の柱がある。
柱は、凹凸を激しく付けて彫られているため、竜が立体的に浮かび上がている。
立体的で豪華絢爛に配色され竜の柱は、今にも天に昇って行きそうな躍動感がある。
重要文化財の境内社の門守神社は、勅使殿の手前の左右に一対で鎮座している。
祭神は、豊磐間戸神(とよいわまどのかみ)と櫛磐間戸神(くしいわまどのかみ)。
境内に悪神と邪気が入らないよに守護し、主祭神と参拝者との間を取り持つ神である。
三の鳥居 |
参道から見る社殿 |
勅使殿の手前に門守神社2棟 |
門守神社 |
門守神社 |
勅使殿 |
勅使殿の先に登廊下 |
登廊下の先に本殿 |
境内 |
【特定できない霧島神宮の所在地】
関裕二『神社仏閣に隠された古代史の謎』(徳間書店、2008年、P157~158)霧島神宮の項目では、霧島神宮の所在地について次のように説明している。
以上から分かるように、霧島神宮は何度も移転を繰り返しており、元々の所在地が分かりづらい。
古事記の瓊瓊杵尊の天孫降臨の段に*「韓国」の文字が記されている。
韓国の文字が韓国岳のことだとしたら、最初に祀られていた場所は韓国岳の可能性がある。
韓国岳だとしたら、霧島神宮の創建はもっと古くてもおかしくない。
何度も移転を繰り返し、元々の所在地が分からないので、霧島神宮がどれほど古いのか分からないのも当然だ。
韓国岳周辺が古代の中心地で、韓国岳の「韓」が鹿児島神宮の歴史と関係することは、実際に鹿児島神宮と韓国岳を訪れて分かった。
*韓国岳、韓国の文字の詳細はこちら⇩
『地球の記憶とエネルギーを感じる場所 霧島連山最高峰の韓国岳』
https://keipandkeip.blogspot.com/2024/02/blog-post.html
*鹿児島神宮の詳細はこちら⇩
『鹿児島神宮』
https://keipandkeip.blogspot.com/2022/08/blog-post_28.html
【霧島神宮の移転先と年代のまとめ】
詳細が分かっている移転先と年代で、「」は移転先の場所。
540年、創建
「元宮→高千穂峰と御鉢の間にある脊門丘」
社殿によると慶胤という僧が創建とのことだが、正確な創建年代は不明。
↓
788年、噴火で焼失
↓
950年、移転
「古宮址(こぐうし)→高千穂河原にある跡地で、霧島神宮による祭事も行われる」
性空という僧が移設。
↓
1234年、噴火で焼失
「東霧島(つまきりしま)神社→霧島山から東に延びる長尾山の麓」
社殿を復興。
↓
1234年~1484年、移転
「仮宮→待世神社の跡地で、霧島中学校の横にある」
噴火がおさまるまでの約250年間祀っていた。
↓
1484年、造営
島津忠昌が社を東西に分ける。
「東社→現在の霧島東神社〔東霧島神社と混同しがちだが所在地が異なる〕」
「西社→現在の霧島神宮」
霧島神宮は、島津忠昌が兼慶(けんけい)という僧に命じて造営。
↓
1705年、火災で焼失
↓
1715年、再建
現在の霧島神宮の社殿は、島津吉貴の寄進により再建。
【瓊瓊杵尊の皇霊と御陵】
瓊瓊杵尊の皇霊は、霧島神宮に祀られている。
瓊瓊杵尊の御陵は、霧島神宮から73㎞ほど離れた*可愛山陵(えのみささぎ)。
可愛山陵は、鹿児島県薩摩川内市の*新田神社の境内の亀神山にある。
御陵と神社が一体となっているのは全国的に珍しい。
川内平野にぽつんとある亀神山は、人為的に築かれたものではないかともいわれている。
新田神社の可愛山陵は、宮内庁より*治定(じじょう)されている陵墓なので、宮内庁直轄となっている。
*治定:陵墓の被葬者を特定すること。
*可愛山陵の詳細はこちら⇩
『瓊瓊杵尊の可愛山陵、彦火火出見尊の高屋山上陵、天皇陵の説明』
https://keipandkeip.blogspot.com/2022/07/blog-post_21.html
*新田神社の詳細はこちら⇩
『新田神社~鹿児島県薩摩川内市』
https://keipandkeip.blogspot.com/2022/08/blog-post.html
可愛山陵 |
新田神社 |
【霧島神宮裏の山道にあるスポット】
[山神社]
御祭神
大山祇神(おおやまつみのかみ)
*木花開耶姫尊の父
社殿の向かって左の上り道を歩いて行くとある。
毎月1日と16日に山神社のお守り「神氣守」が、霧島神宮の授与所で授与される。
朝一で参拝した時には神氣守は出ておらず、巫女さんにお願いして出してもらった。
山神社 |
山神社の石祠 |
神氣守 |
[亀石]
社殿の向かって左の下り道を歩いて行くとある。
亀石 |
[風穴]
亀石のすぐそばにある。
岩穴から風が吹き出していたそうだ。
現在は風は出ていないとのことだが、若干風が出ており、穴の周りに生えている草が揺れていた。
吹き出す風はひんやりと冷たかった。
風穴 |
[亀石坂]
亀石と風穴がある坂道。
旧参道の坂を亀石坂と呼んでいる。
亀石坂と書かれた石 |
急な坂道が続く |
[鎮守神社]
御祭神
天照大神(あまてらすおおみかみ)
霧島神宮の末社 鎮守神社 |
[性空上人供養塔]
鎮守神社の脇にある。
華林寺の境内は、鎮守神社と性空上人供養塔の周辺にあった。
性空上人供養塔 |
[若宮神社]
御祭神
・天忍雲根命(あめのおしくもねのみこと)
・水波能売神(みずはのめのかみ)
・市岐島姫神(いちきしまひめのかみ)
・大名牟遅神(おおなむちのかみ)
若宮神社の横には、綺麗な湧き水の御手洗川が流れている。
11月から4月頃まではほとんど枯れているが、5月頃から大量の水が湧き出す。
昔はここで手を洗って参道を登っていた。
若宮神社 霧島神宮の末社 |
御手洗川 |
【おわりに】
霧島神宮はお気に入りの神社の一つで何度も訪れている。
トンネルを抜けた先に光があるように、私には第三の鳥居から参道までがトンネルで、その先に雛壇のような社殿が光輝いているよに見える。
そるほど参道の先に見える社殿は、遠くから見てもインパクトがある。
旧参道が好きで、霧島神宮を参拝した後に必ず山神社、亀石坂、鎮守神社、若宮神社を訪れる。
山神社にいくつかそびえる巨樹が好きだ。
若宮神社の両脇の御神木と御手洗川を見るのが好きで、いつもここで時間を費やす。
山神社へ向かう道の脇にある側溝には、熱い温泉が流れているところがある。
参拝者休憩所の傍にある池は、温めの温泉で白く濁っている。
霧島神宮の移転先と年代のまとめは、書くことを躊躇した。
なぜなら、書いていて混乱するからである。
霧島神宮は瓊瓊杵尊の皇霊が祀られるほどの神社なので、創建は古くてもおかしくないが、何度も移転しており、途中で東西に分社も行われているので、何が何だかよく分からない。
1234年に社殿を復興して、更に別の場所に仮宮も建てて・・・もう意味が分からない。
移転先と年代は正しいのか、怪しく思えてきた。
でも、後で自分が歴史をたどる時に、読み返しても分かるようにまとめてみた。
島津氏が社を東西に分けたのは、噴火でどちらかの社が焼失しても移転先を考えなくてもいいようにするためか、後世に自分の名を残したいので豪華な社殿を造営したのかもしれない。
東社を霧島東神社にしたのは、創建が古く、高千穂峰の山頂に近く、古くから山岳信仰の場とされていたからかもしれない。
ちなみに、創建は霧島東神社よりも東霧島神社の方が古い。
霧島の名の付く神社が多いので混乱する。
なので今後、霧島の名の付く神社を全部訪れてみたい。
霧島神宮は今後も度々訪れると思う。
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