白鳥神社(しらとりじんじゃ)

 


【所在地】


宮崎県えびの市大字末永



【御祭神】


日本武尊(やまとたけるのみこと)

*第12代・景行天皇の子


入口

階段を上ると社殿

朝6時に到着 辺りは真っ暗

拝殿

拝殿

中央に倭建(やまとたける)像

倭建御名誕生顕彰之碑

拝殿から入口に向かって撮影



【由緒と歴史】


白鳥神社は、宮崎県えびの市南部の白鳥山の北中腹にある。

959年〔平安時代後期〕、性空(しょうくう)上人によって創建された。

室町時代初期、噴火のため現在地に社殿を移設。

古くは白鳥権現と呼ばれ、*霧島六社権現の1社に数えられたとされる古社でもある。


性空が30歳の頃、霧島山の*六観音御池で修行をしていた。

御池の湖畔で法華経を読経している性空の元に、日本武尊の化身と名乗る白髪の老翁が突如現れ、次のような神託をした。

「余(よ)は、日本武尊なり。白鳥となってこの山に棲むこと久し。いま汝の読経に感応して身を現すなり。ここに神社を創建せよ」

その後、性空は六観音像を刻み、御池の湖畔に祀ったことが白鳥神社の始まりとされている。


この地が日本武尊とゆかりが深かったため、尊が亡くなって間もなく、遺徳を慕って祀られたともいわれている。

日本武尊を祀っている神社は、白鳥に対して独自の信仰を伝えている。

白鳥神社も社号のみならず、白鳥を神の化身として深く崇敬していた。

明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)までは、白鳥神社の一帯が鷺(さぎ)や白鳥などの狩猟を禁じていた。

白鳥神社の社号の由来は、亡くなった日本武尊が葬られた際に、身体から抜け出した魂が、大きな白鳥となって飛び立っていったこと。

または、神社のある白鳥山が、天翔け羽を広げている白鳥の姿に似ているからともいわれている。


*霧島六社権現:下で説明。


*六観音御池についてはこちら↓

『地球の記憶とエネルギーを感じる場所 霧島連山最高峰の韓国岳』

https://keipandkeip.blogspot.com/2024/02/blog-post.html


白鳥山と六観音御池の位置

韓国岳五合目 右側に少し見えるのが六観音御池

韓国岳五合目地図



【霧島六社権現とは】


宮崎県と鹿児島県の県境にある、霧島山の周辺にある6つの神社の総称。

現在は5つの神社。

霧島六社権現は、第62代・村上天皇の時代〔平安時代中期〕に、霧島山などで修験道の修行をしていた性空によって整備された。

現在は、日本神話に記される*神代三代、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の神々が祀られている。

修験者の修行の拠点だった霧島山は、山そのものを信仰の対象とする山岳信仰の地だった。


[霧島六社権現一覧]


  • 霧島岑(きりしまみね)神社

   別当:瀬多尾寺 

   所在地:宮崎県小林市


  • 夷守(ひなもり)神社

   別当:宝光院

   所在地:明治時代に霧島岑神社に合祀


  • 狭野(さの)神社

   別当:神徳院

   所在地:宮崎県西諸県郡高原町


  • 東霧島神社

   別当:勅詔(ちょくしょう)院

   所在地:宮崎県都城市高崎町東霧島


  • 霧島東神社

   別当:錫杖(しゃくじょう)院

   所在地:宮崎県西諸県郡高原町


  • 霧島神社

   別当:華林寺

   所在地:鹿児島県霧島市

霧島神宮


*神代三代についてはこちら↓

『瓊瓊杵尊の可愛山陵、彦火火出見尊の高屋山上陵、天皇陵の説明』

https://keipandkeip.blogspot.com/2022/07/blog-post_21.html



【性空(しょうくう)】


平安時代中期の天台宗の僧。

書写上人とも呼ばれている。

36歳の時、*慈恵大師良源(じえだいしりょうげん)に師事し出家。

霧島山や*肥後国の背振山(せふりさん)で修行し、966年に*播磨国の書写山に入山。

書写山の*圓教寺は、性空の創建といわれている。

1007年、播磨国の弥勒寺で98歳で亡くなった。


*慈恵大師:元三大師(がんざんだいし)の名で知られる。


*肥後:壱岐対馬を除く、佐賀県と長崎県。


*播磨:兵庫県南西部。


*圓教寺:兵庫県姫路市。


上人堂

2つの性空上人御尊像



【性空が出家したきっかけ】


性空は、橘家という名門貴族の子として京の都で生まれた。

性空の母は、何人かの子どもを産んでいたが、どの子も酷く難産だったため、性空を身ごもった時、毒を飲んで流産させようとした。

ところが、流産しなかったどころか、不思議なことに安産だった。

性空は、仲太小太郎(ちゅうたこたろう)と名付けられた。

わずか10歳で、藤原大納言(ふじわらだいなごん)の若君の家庭教師として仕えるようになった。

ある日、仲太小太郎は、大納言家の家宝のすずりを割ってしまう。

若君は、友の仲太小太郎をかばおうと、「すずりを割ったのは私です」と申し出た。

怒った大納言は、息子の首を打ってしまう。

仲太小太郎は、自分のせいで友の若君が亡くなってしまったことにショックを受け、出家を決意する。

しかし、母は出家を許してくれなかった。

ある日、母の夢に文殊菩薩が現れる。

「そなたの子を早く出家させよ」

文殊菩薩のお告げに、母はようやく出家を認めた。

そして、仲太小太郎は性空と名乗り、仏に仕える身となった。



【日本武尊(やまとたけるのみこと)】


日本武尊は、熊曾(くまそ)征討や東国征討などを行った日本古代史上の伝説的英雄。

第12代・景行天皇の皇子で、第14代・仲哀(ちゅうあい)天皇の父にあたる。

日本書紀には日本武尊、古事記には倭建命(やまとたけるのみこと)と記されている。

古事記によると、元々の名前は、小碓命(おうすのみこと)、倭男具那命(やまとおぐなのみこと)と名乗っていたと記されている。

小碓命は、父の景行天皇に命じられ、*熊曾の地を*征西。

熊曾の地で最も強いといわれていた熊曾建(くまそたける)を討伐した。

死に瀕した熊曾建は、小碓命に熊曾の地を懇願しながら、小碓命の武勇を讃え、「建(たける)」の名を献上した。

その後、小碓命は「倭建命(やまとたけるのみこと)」と名乗るようになった。

日本武尊は、出雲、吉備、難波などの西国を次々と平定した。

東国平定の途中、伊吹山(いぶきやま)の神の怒りに触れて病の身となる。

尊は死の瀬戸際に、大和の国に向かう*能褒野(のぼの)で、国を偲んで次の歌を詠んだ。


「倭(やまと)は 国の まほろば たたなづく 青垣 山隠(やまごも)れる 倭しうるはし」

大和は、国の中で最もよいところだ。重なりあった青い垣根の山、その中にこもっている大和は、美しい。


*熊曾:熊本県南部から鹿児島県北部までの地。


*征西:西の方(西国)の征伐に行くこと。


*能褒野:三重県鈴鹿市の西方から亀山市にかけての台地。



【神の怒りに触れた日本武尊と白鳥伝説】


東征で多くの荒々しい自然の神々や*蝦夷(えみし)など服従しない人々と*対峙し、勝利してきた日本武尊。 

*尾張の地で*美夜受比売(みやずひめ)と結婚。

そこで「伊吹山に荒ぶる神がいる」と聞き、尊は荒神退治に向かうが、「この山の神は徒手(むなで)に直(ただ)に取りてむ」と、草薙(くさなぎ)の剣を美夜受比売に託し、素手で退治に出かけた。

伊吹山の中腹で、大きな白猪と出会った尊は、伊吹山の荒神の使者と思い、大きな声で「今殺さなくても帰りに殺してやろう」と威嚇した。

しかし、この白猪こそ伊吹山の荒神だった。

尊に侮られ、怒った荒神は、大氷雨を降らせた。

雹に打たれ、体力を消耗し、失神した尊は、命からがら下山した。

尊は、伊吹山の麓に湧き出る清水のもとで休み、ようやく正気を取り戻したが、病の身となり、能褒野の地で亡くなった。

尊の魂は、白鳥となってヤマトへ、さらに*河内の方に飛んで行ったといわれている。

日本書紀では、伊吹山の荒神は猪ではなく、大蛇の姿で現れる。


*蝦夷:古代、北陸・関東北部から東北地方にかけて住んでいた人々。


*対峙:対立する者同士がにらみ合い、動かないこと。


*尾張:愛知県西部。


*美夜受比売:日本書記では宮簀姫(みやすひめ)。尾張の豪族の娘。


*河内:奈良県と和歌山県に近い、大阪府の南北に細長い地域。



【東大寺大仏殿虹梁は白鳥神社の巨松】


奈良県の東大寺大仏殿は、世界最大の木造建築である。

この大仏殿3020トンの大屋根を大仏の真上で支えている、最も重要な虹梁(こうりょう)材の赤松は、白鳥神社の境内より伐出されたものである。

1703年(元禄16年)、樹齢2000年を越える、長さ13間の2本の巨大赤松が伐出された。

樵夫(きこり)90人の手により4日間で伐出され、2本目は100人の人出が3日間費やされた。

代金は1本2000両だった。

霧島山中から薩摩湾岸の国分新川口まで、1日860人と牛40頭によって運び出された。

到着するまでに115日(約8ヵ月)の歳月を要し、命を失った人、怪我をした人もたくさんいた。


東大寺と関連する神社↓

『八幡総本宮 宇佐神宮』

https://keipandkeip.blogspot.com/2023/08/blog-post.html


夫婦杉だった樹齢500年の御神木

夫婦杉の片方は令和4年の台風で倒伏

境内は立派な杉の木がたくさん



【白鳥神社の社殿】


白鳥神社は平安時代、霧島連山の標高830mに位置する白鳥山北麓、現在の白鳥温泉上湯付近に創建されていた。

室町時代、噴火のため現在地に移設。

1809年〔文化6年〕、火災で焼失した後に再建されたのが現在の本殿。

社殿の随所に多くの彫刻が施されている。

中でも、雲竜巻柱(うんりゅうまきばしら)や唐獅子牡丹の彫刻は、旧薩摩藩の特徴的な建築様式である。

雲竜巻柱や唐獅子牡丹の彫刻は、左甚五郎(ひだりじんごろう)作といわれている。


階段の奥に雲竜巻柱がある

雲竜巻柱

拝殿の奥に雲竜巻柱

御神木と社殿



【左甚五郎(ひだりじんごろう】


左甚五郎は、江戸時代初期に活躍されたとされる、宮大工・彫刻師。

作品は、関東の秩父神社や日光東照宮、島根の出雲大社など、全国に100ヵ所ほどある。

日光東照宮の眠り猫の彫刻は、左甚五郎の作品である。

左甚五郎の生涯に関する記録は少ない。

作品は、安土桃山時代から江戸時代後期まで制作されており、300年の時を生きたとも語られている。

そのため、存在すら疑われており、正体不明の伝説的な彫刻師である。

左甚五郎の名は、日本各地で腕を振るった職人達が、自らの名前を「左甚五郎」と名乗り、優れた工匠の代名詞として使われていた可能性もある。



【摂末社】


[前神社]


御祭神

・豊磐間戸神(とよいわまどのかみ)

・櫛磐間戸神(くしいわまどのかみ)


拝殿の手前の右側と左側に一対で鎮座している。

二神とも「門守(かどもり)の神」といわれる。

境内に悪神や邪気が入らないように守護する神。

主祭神と参拝者との間を取り持つ神でもある。


拝殿右側:豊磐間戸神


拝殿左側:櫛磐間戸神



【おわりに】


白鳥神社は、2年前から気になっていた神社である。

2年前、高千穂峰を登山した際、登山口まで車で向かっていると、山の麓の県道に「白鳥神社」と書かれた神社ののぼりがたくさん立っていた。

「はくちょう?しらとり?綺麗な名前。ヤマトタケルを祀っているんだろうな」と思いながら、山道まで車で進んでいると、急にピキーンと耳鳴りがした。

周りを見回すと、「白鳥神社」と書かれた看板が立っていた。

「この先が白鳥神社だろうな。訪れるようにと促されているようだけど…、登山の後に寄ろう」

しかし、帰りは通らなかったため、訪れることができず、「先に行っておけばよかった」と後悔したのだった。

2年後、霧島連山の韓国岳を登山するため、またあの時のように、白鳥神社の前を通ることになった。

しかも、前回は2022年1月9日、今回は2024年1月9日と、ちょうど2年前と同じ日、同じ時間頃に白鳥神社を通り、登山をしていたことが後で分かった。

「今行っとかないと、帰りはこの道通らないよ」と主人に言われ、6時に白鳥神社に到着。

夜明け前だったので、辺りは真っ暗。

「キャイーーーンッ」と山奥まで響き渡る、美しい鹿の鳴き声が2回聞こえ、何だか神秘的だった。

最新のスマホは、暗闇でも写真が綺麗に撮れるのでよかった。

真っ暗だったので、参拝して直ぐに登山に向かおうと思ったのだが、社殿の裏が気になり、裏へ回る。

「あれ?何でライトで照らされているんだろう?」

そこには、物凄く美しい龍と文様が彫刻された柱があった。

雲竜巻柱である。

まるで生きているかのような彫刻の龍は、天に昇って行きそうにも、地上に降りてきたようにも見える。

雲竜巻柱を見て、「今年は辰年だった。今回訪れてよかったかも」と思った。

ちなみに、白鳥神社は、県道30号〔霧島バードライン〕から右折して、山道を550m〔車で約2分〕登った場所にある。

「右折の場所、間違えてないよね?」と思うほど、けっこう山の中へ入って行く。

地元の方々の参拝が多いのではないだろうか、清掃が行き届いている。

境内の雰囲気は清らかで、とても綺麗な神社だ。

「また近くを登山する際には必ず寄ります」と参拝し、登山へ向かった。


高千穂峰・登山についてはこちら↓

『天孫降臨の地~高千穂峰と天逆鉾』

https://keipandkeip.blogspot.com/2022/03/blog-post_25.html